書籍【シン読解力~学力と人生を決めるもうひとつの読み方】読了
「文章が読めない」というのは、識字率の話ではない。
当たり前だが、日本の識字率は、限りなく100%に近い状態のはずだ。
しかし、文字は読めているのに、そこに書かれている「意味」や「論理」を本当に正しく理解できているだろうか。
本書が示しているのは、我々が考えている以上に出来ていないという、その現実だ。
(当然、自分自身もあまりの不出来にショックを受けているのだが)
著者の過去2作「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」「AIに負けない子どもを育てる」も勿論読んだ上での本作。
前2作を読んだ時も衝撃を受けたが、本書はさらにその核心に迫っていると言える。
出来ないのは「子どもたち」だけでは決してない。
全世代とも、当然我々大人たちも「読めてない」ということなのだ。
この我々が直面している喫緊の課題に対して、本書はきちんとその処方箋を示してくれている。
果たしてそれが有効なのかどうかは、私の会社内でも試してみたいところだ。
日々の仕事をしていると、社内でのコミュニケーション不全に悩まされることが、非常に多くある。
最近は特にチャットでのやり取りが多くなったために、ある意味手軽にメッセージのやり取りが出来てしまう。
勿論、社内でのやり取りなのに、メールで丁寧に「お疲れさまです」的な作法を入れることが、無駄だという意見はあるかもしれない。
しかしながら、文脈も伝わりにくい短文のみのやり取りがベストかと言われたら、必ずしもそうとも思えない。
要はメールだろうがチャットだろうが、まして口頭だろうが、相手に伝わってこそのコミュニケーションである。
伝える側の問題ももちろんあるし、メッセージを受け取る側の問題も十分にあり得る。
仕事の指示を出しても、意図が伝わらない。
作業のマニュアルを渡しても、勝手な解釈で仕事を進めてしまう。
会議で合意したはずなのに、後から「そんなつもりじゃなかった」と言われてしまう。
これらは単なる「不注意」や「性格の問題」だと思っていたが、本書を読んで、それが間違いだったことに気づかされた。
根本的な原因は「読解力」の欠如にあったのだということだ。
(もちろん、不注意や性格の問題が、ゼロという訳ではない)
確かに伝える側の力量不足もあるが、それも根本は読解力の無さから起因していると思うのだ。
小説を読んで感動するといった情緒的な読解力ではなく、事実を事実として、論理を論理として正確に読み取る力。
著者が名付けた「シン読解力」が、今決定的に不足しているのは間違いない。
IGPIグループの冨山和彦氏も「論理言語」の重要性を説いているが、本質的には同じことだと思う。
「論理的に読み解けない人が、論理的に説明できるはずがない。」
耳の痛い話であるが、問題は「自分は出来ている」と思い込んでいることだ。
日本人である以上、日本語は理解できて当たり前。
日常的に会話が成立しているのだから、どこがダメなのかに納得がいかないということか。
前書から紹介されている「リーディングスキルテスト(RST)」の結果を見ると、自分自身も背筋が寒くなってしまった。
学生だけでなく、大人であっても、教科書レベルの文章を正確に読めていない人が一定数いると言われると、思い当たる節が数々ある。
私が働く会社でも、読解力についてはまさに課題に感じている。
DX推進や、業務効率化を図りたいと思っているが、どうにも上手く伝わらない。
(私の説明が下手なのは、この際横に置いておいて)
こちらが伝えている話の論理的な意味を理解できていないとしたら。
この問題は「生成AI」の登場によって、さらに深刻さを増していると思う。
生成AIが流暢な日本語を生成し、内容についても、あたかも意味を理解しているかのように振る舞っている。
しかし、実際は確率的にそれらしい言葉を繋げているに過ぎない。
AIが生成した文言の真偽を見極めるのは、結局のところ人間となる。
もし人間側に、文章の論理構造を正確に理解する「シン読解力」がなければ、AIの文言を判断できるはずがない。
「AIに仕事を任せる」のは、読解力がある人だからこそ成立する。
読解力のない人は、AIの判断をそのまま受け入れるしか、選択肢が無くなってしまう。
この現実に対して、我々はどう向き合っていくべきなのか。
結局は「トレーニングによって向上させるしかない」ということだ。
地味で泥臭いことかもしれないが、「言葉への感度」を高める取り組みが、組織全体の生産性を底上げすることに繋がるはずだ。
私自身も初心に戻って、一文一文を丁寧に、論理的に読む訓練をしていきたい。
未来を生き抜くためには、改めてやるしかないと思ったのだ。
(2025/8/6)