先日、新卒の子に「誰にでもわかるようにマニュアルを作成してください」と言われた。
その瞬間、内心こう思った。「お前、自分が今めちゃくちゃ曖昧なことを言っている自覚ないだろ」と。ちなみにこの子の上司は、社内でも「パワハラで有名な人」なんだよ。
「誰にでも」とは誰なのか。新卒なのか、ベテランなのか、業界未経験者なのか。「わかる」とはどのレベルなのか。読めば理解できるレベルなのか、見ずに再現できるレベルなのか。この要求には、判断基準が一つも入っていない。それでいて本人は、明確な指示を出したつもりでいる。
曖昧な要求は、それ自体が圧になる
これがただの言葉足らずなら、聞き返せば済む話だ。厄介なのは、こういう要求をする側が大抵、自分の要求の解像度の低さに気づいていないことだ。
気づいていないから、こちらが「誰にでも、というのはどのレベルの人を想定していますか」と聞き返すと、「そんなことも考えられないの」という顔をされる。曖昧な指示を出しておいて、その曖昧さを埋める仕事まで受け手に丸投げし、埋めきれなければ受け手の理解力の問題にされる。定義されていない基準に向かって、勝手に採点される。
これは、指針や基準値が呪縛に変わる構造とまったく同じだ。基準を握っている側が、自分の基準の曖昧さや理不尽さに無自覚なまま、それを相手に押し付けている。
パワハラはパワハラを生む
なぜこの手の「無自覚な理不尽」がなくならないのか。自分の見てきた範囲で言うと、答えの一つは単純で、多くの人がそれをどこかで自分もされてきているからだと思う。
かつて上司から曖昧な指示を投げつけられ、「それくらい察しろ」と理不尽に詰められた経験がある人は、自分が上の立場になったとき、無意識に同じことをやる。自分がされて嫌だったはずのことを、今度は加害する側として再生産する。しかも本人にその自覚はない。「自分はこうやって育てられてきたから」という理屈が、いつの間にか正当化のロジックにすり替わっている。
パワハラという言葉を使うほど極端でなくても、この「曖昧な要求→丸投げ→理解できない側の責任にする」という構造そのものが、小さなパワハラの再生産だと思う。受けた理不尽を、そのまま次の誰かに渡している。
そして、こういう過酷な現場で「頑張れてしまう」子を見ると、根性があるからだとは限らないんじゃないかと最近思う。むしろ、曖昧な要求や理不尽な詰められ方に順応できてしまう時点で、その子自身が同じ体質を持っている可能性がある。理不尽を理不尽と感じずにこなせてしまう、あるいは理不尽を「これが鍛えられるということだ」と自分の中で正当化できてしまう。その適応力は、根性というより、パワハラ的な環境と相性がいいというだけなのかもしれない。だとすれば、その子はいずれ次の現場で、同じことを今度はやる側に回る。
自分の要求の解像度を、自分で検証する
これを断ち切るために必要なのは、精神論ではなく、単純な確認作業だと思う。
人に何かを頼むとき、「これは自分の頭の中にしかない前提を、相手にそのまま投げていないか」を一度検証する。「誰にでも」「わかりやすく」「いい感じに」「察して」——これらの言葉を使いたくなった瞬間が、実は一番危険なタイミングだ。具体的に言語化する手間を、無意識に相手に押し付けようとしているサインだから。
曖昧な指示を出す側が、自分の曖昧さに無自覚なままでいる限り、この連鎖は止まらない。パワハラはパワハラを生む。それを止められるのは、「自分もその連鎖の一部かもしれない」と一度疑ってみる姿勢だけだと思う。
今回の件は些細な出来事ではあるけど、こういう積み重ねがパワハラへと発展するんだよね。