カラオケ・同期・遅延 〜そして意外な発見〜
カラオケの話から始めます(仕事の話でもあります)。
カラオケで歌うとき、たいていの人は音楽に少し遅れます。
これは意志や練習の問題ではなく、耳で音を聞いてから体が動くまでに、神経の遅延が生理学上に不可避に生じるためです。
反応ベースで合わせようとすると、歌は一定以上のBPMで原理的に遅れるわけです。
上手い人はどうしているか
では上手い人はどうしているのかを考えます。(歌ってみたならDAWであとから合わせられますが……)
これができる人は、聞こえた音にリアクションするのではなく、次に来る拍を予測して、それに向けて先に動いているのではないか、と考えます。リズムの循環構造を頭の中に持っているから、その構造をもとに予測が成立する。
ここで、楽譜にある小節を考えます。
小節とはこの循環の中に置かれた参照点であり、小節線は「ここが区切り」という離散的な目印です。つまり、小節を単に楽譜の上の記号ではなく、頭の中で回っている循環構造のボトムアップな反映として読み解くわけです。
歌う実践として
歌う実践としては、この「循環の目印」に向けて、横隔膜と腹部筋の押出で呼気を合わせます。
「出す」と頭で思って出すのではなく、目印に合わせ息を準備する時点で、腹から押し出す動きのタイミングを意識して発声を起動します。長縄とびに入る予備動作だけ意識するようなものです。
ポイントは決定的なタイミング制御に、耳(脳)からのリアクションを使わないことです。
ちょっとアクロバティックかもしれませんが、皮質処理の遅延がバイパスされることで、歌が自らリズムに同期し、音楽の中に位置づけることができるようになります。
そこで気づいたこと
ここまで練習していて、気づいたことがあります。
この歌声は、脳が「自分が命じた」と登録していないため、自分の声が、外部からの音として届くのです。耳に返ってきた声が外部入力として処理される。自分の声なのに、初めて聴く声のように届く。
さて、ソフトウェアの言葉で言えば、
- 通常の発声は同期呼び出しです。
- 送り出しと受け取りが同一スレッドにある。
- 横隔膜起動は非同期で、返ってきた声はコールバックとして——送り出した主体から切り離された外部イベントとして——脳に届く。
- 「自分が出した」という意識が切り離され、初めて聴く声として届く。
このコールバックの受け取りで発生するのは、意外なことに、感動です。
自分の声に感動するというと自惚れのように聞こえますが、構造としては逆です。
むしろ、歌詞の意味する情景が、自分の中に流れ込んでくる。読書のような作用が生じるのです。
合唱に拡張すると
さらに考えます。
この構造を合唱に拡張してみます。そこで何が起きるか。
それぞれの歌い手が自己の声を外部入力として受け取るとき、隣の人間の声も同じ様式で届きます。自己の他者性と、隣人の実在性が、同じ知覚の中で経験される。隣人がそこで初めてリアルになります。
18世紀末から19世紀のドイツで、合唱運動が市民革命の機運と連動していたのは、偶然ではないかもしれません。
(ここに先ほどの楽譜が表現する循環と離散の話が繋がります。作成中)
声の話をしていたはずが、市民社会の形成に来てしまいました。(以前、市民合唱団に所属していました)
そう、これは一つの話
でもこれは私にとって、「離散と循環」という構造が生み出した一つの軸線上にある着想です。
現象から構造を取り出す。それはアスペクトによって、UIデザインになったり、ソフトウェアのアーキテクチャになったり、このような仮説になったりします。「デザイン」や「エンジニアリング」などは、飽くまで事後的に外から貼られたラベルです。私の興味は、最初から一つです。
仕事では、穀物処理機械のUIを設計していたら、情報の流れとしての構造という考え方に辿り着きました。それをディシプリンと捉えたところ、疎結合なシステムになりました。カラオケの遅れを考えていたら、市民社会に来ました。対象は違うけれど、やっていることは同じだと思っています。
そういう人間と仕事をしたい組織がありましたら、話しかけていただけるとさいわいです。
😉
(論拠などを添えた資料を置いておきます。)