時間とは、あとどれぐらい生きられるかということである
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1日は24時間しかありません。
そのうち、睡眠、食事、入浴、通勤、仕事――生きていくために不可欠な時間を差し引いていくと、自分のために自由に使える時間は驚くほど少ないことに気づきます。
多くの人が社会人になって初めて、「1日ってこんなに短いのか」と実感するのではないでしょうか。
大学4年生ともなれば、ほとんどの単位は取り終え、内定も出ていれば、卒業までの時間は比較的ゆるやかに流れます。大学に行く日より行かない日のほうが多い、という人も珍しくありません。
しかし4月1日。社会人としての生活が始まると、就業時間は明確に定められます。遅刻しないために出勤時刻を逆算し、そのために起床時間を決める。生活は一気に規律の中へと組み込まれます。
当然ながら、「時間がなくなった」と感じるようになります。
けれど本当に切実に「時間がない」と思い始めるのは、育児に携わるようになったとき、あるいは仕事以外に本気でやりたいことが見つかったときではないでしょうか。
心から「これとこれをやりたい」と願うようになると、時間の価値は急激に変わります。
やりたいことがある人にとって、時間はお金よりはるかに貴重です。
一方で、やりたいことがない人は、往々にして時間をお金に替えることを優先します。
もちろんどちらが正しいという話ではありません。ただ、「時間とは、自分の人生の残り時間そのものである」という感覚を共有できない相手と長く過ごすことは、時に苦痛を伴います。時間への向き合い方が真逆であれば、摩擦が生まれるのは自然なことです。
そんな思いを抱えながら生きているとき、ある文章に出会い、深い衝撃を受けました。
それは、きけ わだつみのこえ に収められている、木村久夫氏の手記です。
彼は大正7年大阪府生まれ。昭和17年に京都帝国大学へ入学し、同年入営。終戦後の昭和21年5月、シンガポールの刑務所にて戦犯として刑死しました。享年28歳。実際には無実であったとも伝えられています。
彼は、処刑を待つ日々のなかでこう記しています。
吸う一息の息、吐く一息の息、喰う一匙の飯、これらの一つ一つの凡てが今の私にとっては現世への触感である。
……
ただ与えられた瞬間瞬間を有難く、それあるがままに享受してゆくのである。
自らの死が目前に迫る極限状況において、彼は「今この瞬間に生きている」という事実を、息遣いや一匙の飯の感触の中に見いだします。
昨日は一人、今日は二人と処刑されていく現実。その次は自分かもしれないという状況のなかで、なお「味わう」という言葉を用いる冷静さ。その筆致は淡々としていながら、圧倒的な緊張と静謐さを帯びています。
「日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける」
その境地に至るまでの精神の深さを思うと、言葉を失います。
この手記が書物に収められ、戦争を知らない世代にも読み継がれていることの意味は大きいでしょう。彼の言葉は、単なる歴史資料ではなく、「生きているとは何か」という問いを、いまを生きる私たちに突きつけます。
私はこの文章を読むたびに、こう自問します。
時間とは何か。
それは、あなたの人生の残り時間そのものではないか。
吸う一息、吐く一息。
何気なく口に運ぶ一匙の食事。
その一つ一つが、確かに「生きている」という証であるならば、与えられた時間をどう使うかは、決して軽い問題ではありません。
焦燥からではなく、感謝から。
恐怖からではなく、自覚から。
残された時間を、少しでも意識的に使っていきたい――そう思わずにはいられないのです。