今日からの私は、浅瀬を泳ぐ
深さへの憧れ
私はこれまで、「考えが深い人」と話が合うと思って生きてきた。
物事の表面ではなく、その奥にある構造を見る人。
感情に流されず、本質を掘り下げようとする人。
軽やかさよりも重みを持つ言葉を選ぶ人。
そういう人と話していると、自分が少し賢くなったような気がした。
理解されている感覚があった。
だから私も、深い人間になりたいと思ってここまできた。
深く考えられる人になりたい。
浅さから抜け出したい。
それが成熟だと、どこかで信じていた。
深く潜ろうとして、息が続かなかった
私は実際に、深く考える人間になろうとした。
感情をすぐに言葉にしないようにした。
直感で答えず、一度立ち止まって構造を考えた。
なぜそう思うのか、その理由をさらに疑い、その奥を探した。
そうやって、何度も潜ろうとした。
けれど、続かなかった。
深く潜ろうとするほど、苦しくなった。
考え続けるほど、自分がどこにいるのかわからなくなった。
正しい言葉を探しているうちに、
何も言えなくなる瞬間が増えていった。
そのとき、ふと思った。
「私は、本当に『深い人間』になりたいのだろうか」と。
人は溺れるとき、浅さを求める
思考(人間)の深さと、海の深さは似ていると思う。
深くなるほど、光は届かなくなる。
音は遠のき、周囲は静かになり、圧力だけが増していく。
そこでは、息が長く続かない。
人が海で溺れたとき、どうするだろう。
きっと、うまく泳ごうとはしない。
美しく浮かぼうともしない。
ただ、もがく(はずだ)。
ただ、息を求めて、浅瀬を目指す(はずだ)。
どちらが浅瀬なのか、正確にわからなくても、
空気のある方向へ向かおうとする。
そこにあるのは理性ではなく、本能だ。
苦しいとき、余裕がないとき、人の思考は浅くなる。
遠くまで見渡すことよりも、
次の一呼吸を確保することを優先する。
視野は狭まり、考えは単純になる。
けれどそれは、思考を手放したのではない。
生きることを優先しただけだ。
浅さは、弱さではない。
呼吸を取り戻すための動きだ。
そして私は知っている。
深く潜ろうとして、息が続かなくなった自分を。
方向を見失い、苦しくなり、浅瀬へ戻ろうともがいたあの日常を。
それは逃げたのではなく、
呼吸を続けるために必要なことだったのだと、今は思っている。
(というよりそう信じたい(笑)無理やりにでも(笑))
深さと浅さのあいだで生きていく
それでも私は、深さへの憧れを完全に手放したわけではない。
考えることをやめたいわけでもない。
ただ、落ち着いて息ができる場所を忘れたくないだけだ。
だからきっと、これからも迷いながら生きていく。
深く潜りたくなる日もあるだろうし、
光のある場所へ戻りたくなる日もあるだろう。
行き来を繰り返しながら、生きていく。
ただ、現時点の私はこうだ。
『私は、浅い人間でありたい』