【栗山和暉】雲に仕様書を盗まれた日
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雲をぼんやり眺めていたら、ふと気付いた。あれ、形が妙に具体的だ。まるで昨日自分が深夜に書き上げたばかりの仕様書のページが、そのまま空に貼り付いたような輪郭をしている。ここ最近、仕事が立て込んでいて、寝不足気味なのは分かっている。だから一瞬の錯覚だと思ってまばたきしてみたけれど、雲はむしろ濃くなって、文字らしき影さえ浮かび上がった。そこでようやく頭の中でスイッチが入る。これはただの空じゃない。何かがおかしい。
その日の出勤は落ち着かなかった。歩きながらも、あの雲が気になって仕方ない。職場に入っても、靴を脱ぐ瞬間にまで雲が脳裏をよぎる。パソコンを立ち上げ、昨日の仕様書ファイルを開こうとしたとき、心臓が一拍遅れた。ファイルがない。正確にはファイル名だけが残り、中身が白紙になっている。昨日の自分は確かに書いた。むしろ妙に熱が入って、普段より丁寧に書いた記憶がある。なのにすべて消えている。
同僚に相談しても、誰も状況が飲み込めない。ウイルスチェックもした。ログも確認した。外部アクセスもない。削除した痕跡すらない。まるで最初から白紙だったように振る舞っている。けれどそんなことは絶対にあり得ない。どう考えても辻褄が合わないまま、ふと窓の外を見ると、あの雲がこちらを覗くように広がっていた。まるで書いた内容を自分の中に吸い込み、その形にして見せつけているようで背筋がざわついた。
昼休み、外に出て空を見上げた。雲は静かで、しかしどこかこちらの心を試している気がした。私は考えた。もし本当に雲が仕様書を盗んだのだとしたら、それは単に嫌がらせではないかもしれない。むしろ試練かもしれない。昨日の自分は確かに書いた。でも今日の自分はもっと良いものが書けるのではないか。そんな問いを投げかけているような空の白さだった。
職場に戻ると、私はもう迷っていなかった。パソコンの前に座り、白紙のファイルを開く。昨日のことを思い出しながらも、そこには書かなかった視点が自然と浮かんだ。昨日の私と今日の私が別人のように、すらすらと文章が紡がれていった。書き進めていくうちに、雲が盗んだ理由が分かった気がした。あれは私の思考を空にいったん預け、もっと伸びて飛べるようにするための、奇妙だけれどありがたいリセットボタンだったのだ。
書き終えた瞬間、ふと窓を見ると、さっきまであった雲が跡形もなく消えていた。まるで役目を終えて、静かに帰っていったようだった。空は驚くほど澄み渡っていて、どこか新しいスタートを祝福してくれているようにも見えた。
帰り道、空気が軽く感じた。仕様書を盗まれたのに、なぜか心が晴れている。むしろあの事件がなければ、今日の自分には出会えていなかった。雲に振り回されるなんて笑い話のようだけれど、こういうありえない出来事が、仕事の景色をほんの少し変えてくれるのかもしれない。空を見上げるたび、私は昨日より少しだけ柔らかい気持ちで歩けるようになった。