【栗山和暉】焼きたての匂いに未来を預けた日
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気づけば毎朝同じ時間に、駅へ向かう角の小さなベーカリーの前で立ち止まってしまうようになった。別にパンを買うわけではない。店の奥からふわりと流れてくる、焼きたての香りを胸いっぱいに吸い込むためだけに足を止めている。それが習慣になったのは、ある日ふと「この匂いって、未来のヒントかもしれない」と思った瞬間からだった。
その日、仕事に向かう足取りは重く、正直やる気も薄かった。タスクは山積みで、誰に頼まれたわけでもないのに勝手に気負って、自分の可能性を自分で狭めていた。そんなとき、店のドアが開き、熱気と香りが空気を変えるみたいに押し出されてきた。自分の中の淀んだものが、急にふわっと軽くなる感覚があった。パンの匂いなんてただの匂いだと思っていたけれど、その瞬間だけは違った。焼き上がる直前に漂うあの甘さや熱は、新しく生まれるものの気配そのものだった。
それから、仕事の捉え方が少し変わった。目の前のプロジェクトも、新しく育つ過程の匂いがあることに気づいた。まだ形になっていないときの熱や焦げそうな危うさ、誰にも気づかれない段階の微かな甘み。そういうものを感じ取ろうとするだけで、日常が急に動き出す気がした。自分がやっていることに、まだ見えない「焼き上がり」を勝手に想像できるようになった。
そしてある日、ベーカリーの店主に声をかけられた。毎朝立ち止まる自分を見て気になっていたらしい。「パンの匂いって面白いですよね。焼き上がる前が一番いい匂いなんですよ」と笑っていた。その言葉は、仕事にも人生にもそのまま当てはまる気がした。完成した瞬間より、できる直前の期待のほうが、人を動かす力を持っている。自分が惹かれていたのはパンではなく、そこに詰まった未完成のエネルギーだったのかもしれない。
それからは、自分のプロジェクトにも「焼きかけの匂い」をちゃんと嗅ぎにいくようになった。雑談の中にあるかすかな可能性、誰かの思いつきが発する熱、失敗しそうな試みの持つ焦げそうな香り。どれも未来の形をまだまとっていないだけで、すべてが次の一歩につながる。そう考えると、挑戦そのものが愛おしく思えるようになった。
今日もベーカリーの前で立ち止まりながら、焼きたての匂いを胸に吸い込んでから会社へ向かう。未来のヒントは遠くにあると思っていたけれど、案外こんな街角の香りに紛れているのかもしれない。そう思えるだけで、歩く速度も自然と軽くなる。