「また、下げるのか…」
ホテル事業の収益再興を託されたマーケターとして、私はその言葉を自分の口から発した瞬間を今も覚えています。
競合が宿泊料金を引き下げる。こちらも追随する。翌週にはまた競合が下げる——。誰も「下げる」ことを望んでいないのに、全員が下げ続ける。あの消耗戦を、なんと呼べばいいのか。
私たちが心血を注いで積み上げたブランド価値は、静かに、しかし確実に削り取られていきました。
そんな「事業視点でしか戦えない消耗戦」を打破し、顧客の脳内シェアを奪い返す構造。それを示してくれたのが、芹澤 連氏の著書『“未”顧客理解』でした。
目次
1. リピーター優先という名の「要塞」が招いた停滞
2. 「ダブルジョパディ」と「CEP」——脳内シェアを制する、二つの冷徹な法則
3. 「機能的価値」という思考停止の壁
4. 創業の情熱と、マネージャーの孤独
【メリット:想起の独占】
【デメリット・副作用:浸透のコストと心理的負荷】
5. 明日から真似できる「想起の回路(CEP)」構築の型
ⅰ. 商品の自信ポイントを禁じた「文脈」棚卸し
ⅱ. 「動機」を「文脈 = CEP」に紐付ける
ⅲ. 属性を捨て、文脈を狙うセリフを呟いてみる
結び:「未顧客理解」とは、【謙虚な想像力】
1. リピーター優先という名の「要塞」が招いた停滞
当時、私が直面していたのは「既存客の深掘り」という心地よい罠でした。社内では顧客管理システム(CRM)の導入が絶対的な正義として語られていました。
「ポイントプログラムでリピーターを増やせば顧客生涯価値(LTV)が上がり、売上は維持できる」
しかし現実は残酷です。どれだけ会員プログラムを充実させても、構造自体は競合と変わりません。私たちは「自分たちに都合の良いペルソナ」ばかりを直視し、まだ一度も宿泊していない「圧倒的多数の未顧客」を視界から完全に外していたのです。
ここで私は一つの確信に至りました。
「顧客を理解する」とは、年齢や性別などの属性を知ることではありません。彼らが日常のどの瞬間に、何をきっかけに自社を思い出すのか。意思決定を支配する「想起のメカニズム」を解明することなのです。
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2. 「ダブルジョパディ」と「CEP」——脳内シェアを制する、二つの冷徹な法則
この閉塞感を打破する論理的支柱となったのが、本書で説く「ダブルジョパディ(二重苦)の法則」です。
マーケティングの世界には、統計学的に避けがたい「不都合な真実」が存在します。ウィリアム・マクフィーが提唱したこの法則は、ブランドの成長についてこう断言します。
●ダブルジョパディ(Double Jeopardy)の法則
市場シェアの低いブランドは、顧客数(浸透率)が少ないだけでなく既存顧客の購買頻度(ロイヤルティ)も低い。
つまりシェアを拡大するための唯一の道は、既存客への依存ではなく「まだ買っていない人(未顧客)」へのリーチにあります。
では未顧客にリーチするとは、具体的にどういうことか。そこで登場するのが本書の核心概念「CEP(カテゴリー・エントリー・ポイント)」です。
● CEP(Category Entry Point)とは何か
CEPとは、人が特定のカテゴリー(商品・サービスの種類)を「買おう」「使おう」と思い立つ、生活の中の具体的なきっかけ
のことです。平たく言えば「そのブランドを思い出す瞬間の文脈」です。たとえばブラックコーヒーなら「朝、眠気を飛ばしたい」「会議前に集中モードに入りたい」「甘いものを食べた後に口をリセットしたい」——これらがそれぞれ異なるCEPです。
同じ商品でも、顧客が置かれた「状況」によって、競合相手も、求められる価値も、まったく変わります。
逆に言えば、どれだけ品質を磨いてもCEPを設計していないブランドは「思い出されない」。検討の土俵にすら上がれないまま、未顧客の日常からこぼれ落ちていくのです。
3. 「機能的価値」という思考停止の壁
かくして理論を得ることができました。
一方、組織に浸透させる必要があります。その浸透プロセスはまさに「認知の書き換え」という苦行でした。
私は最初、自社ブランドが想起される「文脈」を掘り起こすため、独り脳内でブレインストーミングを敢行しました。結果、顧客の口コミには極めて書かれない「ストレス発散」「同じ価値観を持つ仲間との時間」「家族のためのホテル」といった、生活者のシーンに基づくワードを絞り出すことができました。
しかしこの視点をチームに共有した際、大きな摩擦が起きました。
社内関連メンバー10数名にヒアリングすると、返ってくるのは相変わらず「立地の良さ」「アメニティの充実」といった機能的価値への固執でした。
正直に言えば、私自身も半年前まで同じことを言っていた一人です。メンバーは「顧客」を見ていたのではなく、自分たちが心血を注いだ「プロダクト」を鏡越しに見ていただけでした。
自分たちの価値を「シーン」で再定義することは、これまでの「スペック重視のOS」を捨てることを意味します。この「文脈」へのパラダイムシフトこそが、現場実装における最大の障壁でした。
私はこの気づきを“教材”に転化し、座学形式の社内レクチャーを行いました。
全員一斉、1on1、プレゼン形式……メンバーのリテラシーを見立てながら使い分け開催しました。事実、レクチャー後のアンケートには「分かりやすかった」の声も届きました。
しかし、それで終わり。思考停止の様相でした。表面上は理解した。でも「自分の仕事でどう使うか」まで転化できた人間は、ほとんどいない印象だったのです。
たかだかプレゼン形式の10分のレクチャーで、長年染みついた「スペック重視のOS」を書き換えること。そう簡単ではなかったのです。
「分かりやすかった」と「使えるようになった」の間にある、この深い溝。——その実感が、マーケターとしての本当の孤独でした。
4. 創業の情熱と、マネージャーの孤独
この理論を現場に実装して得たのは、確かな手応えと、それ以上に重い「伝える側の限界」という学びでした。
【メリット:想起の独占】
CEPを軸にWeb上のクリエイティブを「文脈(コンテキスト)・イン」へと切り替えたことで、価格比較の土俵外から未顧客を呼び込むことに成功しました。
例えば、IT業界であれば「効率化」ではなく「定時に帰って子供を抱きしめる瞬間」を狙う。この転換がブランドの独自性を際立たせました。
【デメリット・副作用:浸透のコストと心理的負荷】
一方で、このアプローチは「直感」に反します。人は「今いる顧客」を喜ばせる方が容易で、達成感も得やすいからです。理論を理解したつもりでも、それを自ら「転化」できるメンバーはごく一握りでした。
また、初期メンバーや経営層との摩擦も避けられませんでした。彼らのプロダクトに対する並々ならぬ情熱こそが、ブランドの礎を築いてきたのは事実です。しかし、その情熱ゆえに「プロダクトそのもの」に目が眩み、変化する市場の文脈が見えづらくなっていた。
「論理的に正しいと確信しているのに、誰もついてこない」
そんな瞬間の、胃が痛むような孤独感。それでも「教材」として理論を語り続けたのは、それがチームを一段上のステージへ引き上げる唯一の道だと信じていたからです。
5. 明日から真似できる「想起の回路(CEP)」構築の型
最後に、この苦闘から得た再現可能な「現場の型」を提示します。ホテル以外のビジネスでも以下の3ステップは有効です。
ⅰ. 商品の自信ポイントを禁じた「文脈」棚卸し
まず、自社の「機能(安さ、速さ、質)」を一切口にせず、顧客がそのサービスを思い出すであろう「日常生活の瞬間」を書き出してください。
例1: SaaSなら「会議で自分の意見が通らず、無力感を感じた帰り道」
例2: ホテルなら「SNSで友人の活躍を見て、焦燥と憧れが混ざった瞬間」
主語を「プロダクト(商品)」から「顧客の人生(シーン)」へと移す作業です。
ⅱ. 「動機」を「文脈 = CEP」に紐付ける
Step 1で出した「シーン(文脈)」に、「なぜそのシーンに至ったのか(動機)」を重ねてください。
動機を書き出すことで、単なるシーンの羅列にブランド独自の「意味(ベネフィット)」が通い始めます。「この瞬間の、この切なさを解決するのは、私たちの出番だ」と定義できるまで深掘りしてください。答えはデータの外にあります。
ⅲ. 属性を捨て、文脈を狙うセリフを呟いてみる
「年代・性別・居住地」という有りがちな属性ターゲットを、横に置いたままにしましょう。代わりに「特定のCEPにいる人」を狙って絞りこみます。
<例>
Before: 「高機能なタスク管理ツール」
After: 「大切な約束だから、忘れたくないなぁ」
セリフから文脈に呼びかけるコピーに繋がります。未顧客にとって「自分だけの入り口」になります。
結び:「未顧客理解」とは、【謙虚な想像力】
「未顧客理解」とは、理論や公式として使って満足するより、私たちの私たち自身が思い浮かべる【謙虚な想像力】そのものです。
自社が「いかに思い出されていないか」という残酷な事実を認め、生活者の些細な感情に寄り添うこと。「動機」で「文脈」を掴む。この二つが地続きになった時、初めて「仕組みとしての収益成長の手がかり」を掴むことができます。
CEP軸へ切り替えた後、変化を感じたのは数字ではありませんでした。チームの「問い」が変わっていたのです。以前は「どのスペックを前に出すか」だった会議の議題が、「お客様はどんな瞬間に私たちを思い出すか」に変わっていた。
派手な逆転劇ではありません。それでも、その小さな問いの変化が景色が変わり始めたサインでした。
もしあなたが今「良いものを作っているのに、なぜか選ばれない」という感覚を持っているなら、それはプロダクトの問題ではなく「想起の設計」の問題かもしれません。
明日の朝、一つだけ試してみてください。自社サービスを「機能」ではなく「顧客の生活の瞬間」で説明し直すことを。
▼なぜ連載するのか
▼ S1 #1/10 :ジョブ理論