朝、部屋の隅に置いたまま忘れていた透明なバケツが、なぜか今日は妙に存在感を放っていた。光を集めるでもなく、音を立てるでもなく、ただ静かにそこにあるだけなのに、まるでこちらの思考をじっと覗き込んでいるような気配がした。バケツが気になり始めると、一度も意識したことのないほど深い問いが頭の中に浮かんでくる。なぜ透明なのか。なぜ今ここにあるのか。そもそも、バケツとは何を受け止める器なのか。そんなことを考えている自分に気づき、思わず笑ってしまった。けれど、その笑いはどこか曖昧で、まるでこのバケツを前にして、ごまかしきれない何かがあるような気もしていた。
バケツを手に取ると、意外なほど軽かった。空っぽである重さは、どうしてこんなにも落ち着かないのだろう。満たされていないという事実が、形となって手の中にある。そのことが、自分の中にある何かと妙に重なってしまった。今、何を満たしたいのか。何を入れたら、このバケツはしっくりくるのか。水でも砂でも落ち葉でもなく、もっと抽象的で、形のないものを入れたいような気がした。例えば、今日つい見送ってしまった決断や、胸の奥でこっそりくすぶっている希望のようなもの。そういったものがこの透明な器には似合う気がした。
部屋を歩き回りながら、バケツの中に入れたいものを探してみる。もちろん、物理的には入らないとわかっている。けれど、入れたいものを意識するだけで、それが輪郭を帯びていく。自分の中にある曖昧な願いごとが、言葉ではなく質量を持ち始める。それをそっとバケツの中に置くイメージをすると、不思議と心がすっと軽くなっていく。器があるから、気持ちも置ける。そんな小さな仕組みを今日ようやく理解した気がした。
透明で、空っぽで、何も語らないバケツは、結局のところ鏡のように自分を映していただけなのかもしれない。自分が何を求めているのか、自分でも気づいていないことをこっそり見せてくれるために、部屋の隅でずっと待っていたのかもしれない。そう思うと、この何の変哲もない道具が、急に大切な存在に見えてくるから不思議だ。人は、説明書も機能も値段も関係なく、ふとしたきっかけで物に意味を与える。その瞬間にだけ生まれる小さな物語が、日常をそっと彩ってくれる。
仕事に追われ、決断の連続に疲れ、ただ前に進むことが目的のように感じてしまう日々の中で、こうした何でもない物との対話は思った以上に優しい。透明なバケツは空っぽのままだが、その空っぽさのおかげで、自分が何を満たしたいのかを知る時間が生まれた。今日はこのバケツを机の横に置いておく。明日はまた違う気持ちをそこにそっと入れるかもしれないし、全く別の意味を見つけるかもしれない。その曖昧さも含めて、この器はきっと今日から少しだけ特別な存在になるのだと思う。