【前嶋拳人】名刺をなくした日、ようやく自分の名前で話せた
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ある朝、商談先に向かう途中で気づいた。名刺入れがない。何度カバンをひっくり返しても、どこにも見当たらない。名刺がないということは、自分の役職も会社名も紹介できないということだ。つまり、社会的な「私の肩書き」が突然消えた瞬間だった。
焦る気持ちを抑えて打ち合わせの席に座った。相手は私の名前しか知らない。会社も部署もわからない。自己紹介の順番が回ってくる。いつもなら名刺を渡しながら一言添えて済ませるところだが、今日は違う。私は一瞬考えて、こう言った。「私は、相手の言葉の奥にある“まだ言葉になっていないもの”を形にするのが好きなんです」。相手は少し驚いた顔をしたあと、笑った。「面白い紹介の仕方ですね」。それが意外とすんなり会話の糸口になった。
その日の打ち合わせは、いつもより人間味があった。役職や業務の話よりも、お互いがどんな感覚で仕事をしているか、どんな瞬間に面白さを感じるか、そんな話に自然と流れていった。名刺があったらきっと交わさなかった種類の言葉だったと思う。
帰り道、名刺がなくなったことが不思議とありがたく思えた。自分が何者かを、会社名でなく語る練習をしていなかったことに気づいたからだ。誰かの組織の一部としてではなく、一人の人間として何を考え、どう動いているか。名刺がないことで、ようやく自分の声が聞こえた気がした。
社会に出てから、名刺は「自分を証明する小さな盾」だった。だが同時に、それは「他人に理解されるための仮面」でもあったのかもしれない。人は、名刺に書かれた肩書きを見てから、ようやくあなたを理解した気になる。でも本当は、その文字の奥にいる人間を見てほしいと思っていた。
もしあなたが今、転職を考えていたり、自分の仕事に迷っているなら、一度「名刺のない自分」で誰かに会ってみてほしい。SNSのプロフィールも会社名も、いったん外して、ただ自分の名前と興味だけで話してみる。すると、不思議と話の質が変わる。守るものが少ないほど、言葉は本音に近づいていく。
名刺をなくしたあの日から、私は会議でも初対面の人にも、自分の「職業」ではなく「興味」から話すようになった。「今、何を面白がっているのか」を軸にすると、相手の目が変わる。その人もまた、自分の中にある“肩書きの外側”を探し始める。そうやって生まれる対話は、単なるビジネスの関係を超えていく。
もしかしたら、これからの働き方に必要なのは、名刺のアップデートではなく、名刺の“無化”なのかもしれない。名前だけで話すこと。それは不安でもあり、同時にすごく自由だ。今日も新しい出会いの場に立つたび、あのときの冷や汗を思い出す。だが今は、名刺入れを忘れても焦らない。なぜなら、ようやく自分の言葉で名乗れるようになったからだ。