**七層 × 四季 × 心象の物語
**七層 × 四季 × 心象の物語
──ひとりの再生が、絵画の深層と重なる一年**
**第一層:接着層(春の土の匂い)
“生きる場所”を思い出す**
春の気配がようやく冬を押し返した頃、
彼女は絵の前に立った。
まず行うのは、
キャンバスに**にかわ(またはラビットスキン)**を塗る
「サイジング(接着層)」。
絵具を受け止めるための土台──
それはまるで、冬の間眠っていた心が
“生きる場所”を取り戻すようだった。
にかわが乾くと、
キャンバスはわずかに緊張して音を立てる。
その音は、
春の土がふくらむときの、
かすかな“息”に似ていた。
再生は、ここから始まる。
世界の表面に、ふたたび呼吸の準備が整う。
**第二層:地塗り(初夏の光の白さ)
“まっさらではなく、受け止めるための白”**
次に彼女は、白の地塗り(グラウンド)を敷く。
チタンホワイトではなく、
わずかに黄味を帯びた伝統的な鉛白の地塗り。
それは眩しい白ではなく、
「光を柔らかく吸い、返す白」。
「真っ白って怖いと思っていたけど…
この白は、見守ってくれる感じがします」
初夏の柔らかな光のように、
この白は“受け止める白”。
人生も同じだった。
真っ白は苦しい。
でも、温度のある白なら、
次の色を呼び込める。
**第三層:インプリマトゥーラ(夏へ向かう風の色)
“絵の空気の温度”を決める透明層**
彼女は薄いオリーブ色を溶かし、
画面全体に透明な「インプリマトゥーラ」をかけた。
これは色を塗るのではない。
絵の“空気”を決める層。
黄緑の光がふわりと広がり、
すでに画面には夏へ向かう気配が宿っていた。
インプリマトゥーラは、
未来を予告する層。
まだ描かれていないのに、
“これからどんな世界が生まれるか”が
静かににじみ出てくる。
心が未来の匂いをうっすら思い出すように。
**第四層:デッドカラー(夏の前の決意)
光と影だけで、自分の輪郭と向き合う**
夏の光が近づくころ、
彼女は色を封じて**グリザイユ(デッドカラー)**を始めた。
黒と白とごく少量のアンバーのみ。
ここでは色は禁物だ。
影の深さ、
光の角度、
形の重心──
それらを淡々と、
しかし正確に描く。
「色がないほうが、
自分の迷いがよく分かります」
デッドカラーは、
内面と向き合う季節。
派手さはないが、
ここが最も重要な層だ。
どれほど鮮やかな色を塗っても、
この層が弱ければ作品は崩れる。
人の心も同じだった。
外の明るさより、
影の配置が人生の形を決める。
**第五層:ローカルカラー/インパスト(盛夏の衝動)
“厚み”としての感情が画面に立ち上がる**
夏がピークに達したころ、
彼女はついに色を解放した。
カドミウムイエロー、バーミリオン、コバルトブルー。
そして、ナイフを使ったインパスト。
透明層ではなく、不透明の“色の肉”。
一度置けば、二度と消えない力。
筆の勢いも、指の震えも、
すべてがそのまま立体の凹凸になる。
「夏って、隠しごとができませんね…
全部が表面に出てくる」
インパストは、
生々しい衝動の層。
心がうずく日、
どうしても泣きたくなる瞬間、
胸の奥に蓄えていた痛みや喜びを
“押し出す”技法だった。
この盛夏の層は、
彼女の生の証のようだった。
**第六層:スカンブリング(秋の深まり)
厚すぎる感情を、淡いヴェールでそっと和らげる**
秋風が吹き始めると、
彼女は乾いた筆で明るい色を薄くかすめる
スカンブリングに移った。
インパストの強烈な“主張”の上に、
粉雪のような淡い光が乗り、
夏の厚みは穏やかな秋の影と溶け合い始めた。
「強かったものが、
静かに柔らかくなっていく感じがします」
スカンブリングは、
過去の激情を否定しない。
ただ、
“抱きしめて輪郭を丸くする”だけだ。
それはまさに秋の営みだった。
痛みや記憶を引き連れながらも、
表情がやわらぎ、
内側の温度が少し落ち着く。
秋は、心が深さを覚える季節。
**第七層:グレーズ(冬の静けさを透かす光)
透明の層を重ねるたび、光が“奥底”から戻ってくる**
冬が訪れたとき、
彼女は最後の工程──グレーズに入った。
透明に近い藍、深紅、琥珀。
それらをテレピンで薄く溶き、
十層、十五層……
何十回と重ねていく。
一層では変わらない。
二層でもまだ。
しかし十層目に近づくころ、
色は光を吸い込み、
深い海の底から
ゆっくりと輝きを返し始める。
「冬の光みたい。
直接は来ないけど、
どこか遠くから戻ってくる光……。」
グレーズは、
沈黙の奥に灯る光を描く技法。
表面は穏やかだが、
深層は燃えている。
まるで冬の心そのものだった。
**そして次の春──
七つの層が、ひとつの魂として立ち上がる**
一年をかけ、この七層すべてが積み重なったとき、
作品は“表面だけの絵”ではなくなっていた。
インプリマトゥーラの薄い風。
デッドカラーの骨格の強さ。
インパストの衝動の厚み。
スカンブリングの柔らかな余韻。
グレーズの深奥から返る光。
すべてがひとつになり、
ひとりの人間の「内なる季節」が
そのまま画面に宿っていた。
彼女は静かに言った。
「変わったというより……
積み重なって、深くなった気がします。」
それは、
七層構造そのものの答えでもあった。
人生は塗り直しではなく、
重ねることでしか輝けない。
その真実が、
キャンバスの奥から冬の光のように
静かに返ってきた。