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どんなに苦しく絶望的な状況でも諦めない大切さ ~被災した経営者たち 第一弾~

大変な時だからこそ前に進み続ける重要性を教えてくれたのは東日本大震災で被災した旅館、春木屋の織内(おりうち)さんでした。

日々の仕事で疲れている方、学業で忙しい学生さん、家庭を支える方、そして何よりも被災された方が明日もう一歩前に進めるための勇気と希望になってほしいです。

春木屋さんに到着

--- 春木屋はいつから旅館業を始めたのですか?

春木屋は江戸時代の小さな藩の御用商人から始まりました。江戸の時代が終わって藩もなくなり、店の前に道がなくなってしまったため、商いがまわらなくなって明治26年に湯治場へ商売替えをしました。

ご主人の織内(おりうち)さん

昭和41年に常磐ハワイアンセンターができ、旅行ブームというのもあり、小さな温泉町だったにも関わらず少しづつお客さんが増えてきました。そうなったら客室も足りなくなったりし始めたので、春木屋も湯治場から徐々に一般の旅館へと変わっていきました。

--- いくつもの逆境を乗り越えてきたんですね

地道に営業を続けましたが立地が山の中ということや、オイルショックやバブル崩壊という経済の荒波にもまれ、旅館でゆっくりするというレジャーに対しての考え方がホテル街や海外旅行などと多様化しはじめ、「困ったな」という時に震災が起こりました。

東日本大震災時の春木屋

--- 地震が襲ってきたときはどのような状況でしたか?

2011年3月11日、妻と二人で近くのスーパーでその日の食材を仕入れていました。そうしたら、14時46分にこの世のものとは思えないほどの揺れを感じました。こんなことが世の中で起きるのかなと思うぐらいの揺れが収まった後は、旅館にいるお客さまのことが心配になり、買ったものを急いで車に乗せ、すぐに戻りました。地震直後だったので、交通規制などがかかる前に車で旅館まで戻ることができました。

--- 旅館は無事でしたか?

それが…屋根は一部壊れてしまっていて、水や温泉も止まり、さらに電話の回線も遮断されていました。しかし、心配していたお客さんは無事でした。電気はかろうじて通っていたため冷蔵庫に食材を保存できましたし、旅館の裏に井戸があったので、その水を使ってトイレは流せました。貯蓄タンクもあったので、飲料水などにすぐに困ることはなかったのですが、その夜にはなくなってしまいました。

--- 泊まっていたお客様はどうされたのですか?

幸いにもお客様は近くにご自宅がありましたので、揺れが落ち着いてすぐ帰ることができました。震災の次の日は高速道路が使えないということで「食事はいらないから泊まるところだけでも」という方がいらっしゃったのですが、お困りのようだったので泊まって頂くことになりました。しかし、震災から2日目ではこちらも営業をしている場合でもなく、従業員も自宅待機だったため、お帰り頂きました。

電気は通っていたので、ロビーにあるテレビを家族で囲んでニュースを見ていたのですが、宮城県の津波に関する報道ばかりだったので、最初はどこか「遠い場所の出来事」だと感じていました。いわき市の壊滅的な被害のことを知ったのはだいぶ後になってからでした。

それから数日して、家族と一緒に避難するか、そして従業員を周りの旅館のように解雇するかを考えていたら、4月の頭にいわき市の隣町である広野町の役場の人が来て、広野町の役場を近くに持ってくるから、町民の方が避難生活をするために借り上げたいと突然言ってきたんです。

--- 役場の方のお話を聞いたとき、正直どう感じられました?

不安でした。そんなこと未経験だし、従業員もいないし、水も出ないと言ったのですが、旅館なら家族ごとに部屋に入れるし、プライバシーもあるから助かるのでなんとかお願いできないかと熱心にお願いされたんですよね。

3月の寒い中、体育館での避難生活は数週間続いており、避難していた方はもう限界だということで、それを傍で見ていた役場の方も疲労困憊の様子でした。まあ部屋はあるし、電気だけはあるので、それでよければ使ってくださいという形で引き受けることにしました。

しかし、何をどうすればいいかとかの段取りは一切なかったんですよ。ご飯をどうすればいいか役場の方と相談したら、ご飯と味噌汁だけでもいいと言われ、でも「朝と昼と夜ですか?」と聞いたら「そうです」と言われ、正直大変だなと焦りました(笑)。でもその時には、やっと水と温泉が復旧したばかりで、なんとかなるかな…と思っていました。

旅館での避難生活

--- 引き受けてからはどうスタートされたのですか?

その日からいろんな避難所から続々と移って来まして、人数を聞きながら部屋の振り分けをしていきました。やっと一段落したかと思ったら、4月11日に直下型の地震がいわき市を襲いまして、さすがに建物が倒れるかと思い、本当に怖かったです。そして折角復旧した水や温泉、今回は命綱でもあった井戸まで出なくなりました。

--- それは大変なことに……それでも避難生活を続けたんですね

「この状況だとさすがにもうできません」と役場の方に伝えました。すると役場の方が「小型の給水車があるから」と言い、どうにかこのまま引き受けてくれないかとお願いしてきました。その日から毎日2回水を運んでくれました。私も当時は農業用の水のタンクが5つあり、それを出してきてそこから各自バケツで汲んでいってもらいました。この状況が5月の連休ぐらいまで続きました。40~50人の方の生活に使う水を毎日毎日給水車で運んできてくれて、本当に頭が下がりました。その他にもお医者さんが巡回に来てくれたり、ボランティアの方が来てくれたり、熱心に協力してくださいました。

--- いつ頃までこのような避難生活が続いたんですか?

8月頃に仮設住宅ができ始め、年配の方と小さなお子さんがいらっしゃる方から徐々に退去していきました。10月の始めに最後の方が退去されました。本当に大変な時期でしたね。我々は普通1泊2食のところ、今回は3食でした。なので朝ごはんが終わったら洗い物をして、すぐお昼の準備をし、それが終わったらまた洗い物をしてからまた夜の支度をしていました。お休みがないのでずっと連日このような日々で、それに加えて食料の調達もしていました。夢中でやっていたんですけど、最後の方が退去し、ひと段落終わったなと思った瞬間寂しい感じもしましたね。

--- 広野町の方たちが退去してからは?

広野町の方たちが退去して少し経った頃に、高校教育課の方から当時サテライトで通っていた高校生たちをいわき市の高校に集約するので、宿舎として借り上げたいとお願いが我々の組合にありました。アンケートもファックスで送られてきまして、ご協力いただけないかとあったので、広野町の方もいないし、お客さんもいないのでいいですよと回答しました。

ただ、この山の中ですし、駅から5キロだったのでもっと学校に近いところがいいんじゃないかなと思っていました。しかし、実際のところあまり引き受けてくれるところがなかったそうです。

--- え?やっと広野町の件が終わったと思ったら別の依頼が舞い込んできた、と?

高校教育課の方が熱心に相談しに何度も来てくれました。それでも駅から遠いし、気の毒だし、「駅まで歩いていけるところがいいのでは」とお伝えしたのですが、それでもなんとか引き受けてくれないかと何回も直接来ましたね。彼は福島市から車で2時間ぐらいかかるのにしょっちゅう来るんですよ、説得に。今でも覚えていますが、その方は本当に、本当に疲れ切っているんですよ。事務の仕事をしてから夜7時か8時ぐらいに説得しに来てくれて、その姿を見ていると情に絆されて「じゃあやりますか」と言いました。

しかし、今回もまた条件や細かい話は全くなく引き受けてしまいました。やはり一番気になったのが学生さんたちの足の便の悪さで、不便だと思っていました。ですので、高校教育課の方に男の子の生徒さんなら引き受けますと言いました。女の子は夜の山道が心配で……男の子なら大丈夫かなとその時は考えました。高校教育課の方はそのお願いを聞いてくださり、高校1年生から3年生までの20人の男性生徒を引き受けることになりました。2人で一部屋と部屋割りをしたりで、やったことがないことばかりで大変でした。

--- 広野町の方とは違う苦労とは具体的にどのような?

大変だったのは学生さんたちの駅までの送り迎えでした。小さな送迎バスは持っていたので、20名を朝に一回と夜に一回送り迎えをすればいいと単純に考えていたのですが、実は学生さんたちは野球部の子もいれば、帰宅部の子もいればで帰る時間がバラバラだったんですよ。午後の5時から9時の間に4回迎えに行っていました。1年間毎日迎えを続けました。

子供さんたちはみんな純朴でしたね。1人、リーダー格で気の利いた子がいたんですよ。ただ、持病を持っていてたまに倒れるんです。詳しいことはわかりませんけど。救急車に3回ぐらい載せたり、自分で消防署にまで連れて行って救急車を待ったこともありました。

でもその子は本当にみんなをまとめて、その子にお願いするとみんなに伝えてくれて。がたいが大きいわけではないんだけど、気の利くお兄さんでした。みんなの信頼があって、その子の言うことは聞いてくれたから、まとめる役割をしてくれました。無事、高校は卒業したそうです。

他には中途からうちに移ってきた子もいて、彼は1年生の頃は東京に家族と避難して、東京の高校に編入したらしいんですけど、馴染めなかったらしくてね。いじめられたかなんかで辞めて、結局戻ってきたんですよ。親御さんは東京に残って、その子だけ来ることになったから、途中からここにも来ることになりました。でもね、ここでもやっぱり馴染めないんですよ。学生たちが泊まっていたそれぞれの部屋テレビがあるのですが、その子だけ毎晩ロビーのテレビを見ていたりね。だから旅館の従業員にその子に話しかけるようにしました。でもその子も無事進級し、親御さんも戻ってきたのでご家族と住むことになりました。

でもその子はね、親御さんとここに泊まりに来てくれたこともあったんですよ。当時のイメージはびっくりするぐらい変わっていて。すごいホッとしました(笑)。立派な青年になっていました。

やんちゃな子ばかりでしたね。一番心配したのが途中で辞めたり、進級できない子がいたらやだなと思っていました。親元から離れて、お預かりしている以上やはりそこは責任を持ちたいと思いました。3年生の子には無事に揃って卒業してほしい。1、2年生の子には揃って進級してほしい。それが一番の願いでした。

--- 学生さんが卒業されてからは通常営業に戻られたのですか?

いいえ、実は学生さんたちが無事卒業した後に次はおまわりさんが泊まることになりました。緊急事態でもありましたので、

--- えええ…エンドレスに続いてません?

全国から警察が1ヶ月から2ヶ月交代で応援部隊としていわきに来てくれました。最初が福岡県警の方達で、水も出ないし、風呂にも入れないしと一番大変な時期でして、本当に頭が下がりました。福岡県警は2日かけて来てくれて、1週間勤務して、次の部隊が来て交代するというのが2ヶ月ほど続きました。それからは色々なところから10ヶ月ほど入れ替わり立ち代わりでした。

応援部隊として来てくださったおまわりさんは、いわき駅の近くにある警察署で勤務していたので、私が毎日送っていましたね。おまわりさんは一回出勤すると20時間ほど勤務するので、帰ってくるのが次の日の午前中なんですよね。なので、その日に勤務するおまわりさんを乗せて行って、1時間ほど警察署の前で待って、昨日勤務して終わったおまわりさんを乗せて帰るということを繰り返していました。

今思うと色々なことをしましたね(笑)。

--- 色々とご経験されたと思うのですが、続けるモチベーションはいったいどこから?

若い人がボランティアで色々なところで手伝いをするのが当たり前になってきているのが影響しますかね。私は被災箇所に行って何かすることはできなかったけれど、旅館の部屋は空いているし、こういう形での手伝いならできるかなと。

旅館でお泊まりしてもらうことは長年やってもらっているわけですし、得手の部分だと思ったんですよね。一般のお客さんは来ないので、とにかく必要とされている方に使っていただければ従業員さんが働く機会も生まれてくるし、大変助かりました。いわきのみなさんがそれぞれの場所で努力されているなか、私は何ができるかを考えた時に、このような形での支援でした。そういう意味では「こうあるべきだ」という概念に捉われない商売の仕方は大事だなと思いました。その時、その時代のお客さんに合わせてやっていけばいいのかなと考えるようになりました。

--- 被災された経営者へメッセージをお願いします

一番伝えたいのは、震災にあったり、災害にあっても諦めてはだめということですね。

お客様がいらっしゃらない時期には、お部屋が毎日使われることになるとは全く予想していませんでした。しかし、ある日突然役場の人がやって来て、引き受けてくれないかと言われ、その時は「やったことないしな」と躊躇しました。そこで時々様子を見に来てくれていた友人に相談していたら「やったらいいじゃない、何が起こるかわからないし、この先。やってみたら。」といっていただきました。

そこから今まででは考えられないような方々に利用してもらって、繋いで来ました。本当に未来はわからないですね。

当時は宿が潰れても、言い訳が立つなと思いました。こんな未曾有な震災があって、原発の事故もあって、お客様も来ないんだから、「宿は潰れました」って言っても仕方ないかなと。でも今回のように何があるかわからないから諦めてはだめです。どういう状況でも一生懸命やらないとだめですね。水も温泉もない時は本当に明日のことを考えずにその日その日だけ考えていました。その時は食材とかも乏しかったので、奥さんと八百屋を回って毎日仕入れに行っていました。当時はガムシャラに頑張っていました。

諦めないでコツコツやることは重要ですね。いいことも悪いこともあるけど、悪いことばっかりってことはないんですよね。人生って。必ず、たくさんいいことがあれば、悪いこともついて来ますし、逆に、悪いことが続いたからって、それがずっと一生続くかっていったらそうではないです。悪い時こそ一生懸命やらないとだめですね。一生懸命やっているといいことも訪れるでしょうし、来た時にものにできるかどうかは悪かった時の過ごし方な気がしますね。

インタビューを終えて感じたこと

私たちはこのような大規模な震災を経験したことがなかったので、織内さんが経験されたことがどれほど大変だったのかは想像すらできませんでした。しかし、自身が被災したにも関わらず、他人のため、助けを必要としている方のために毎日毎日努力をするその姿が純粋にかっこいいと思いました。

私たちも日々の生活の中で躓いたら、織内さんのような方がいることを思い出し、もう一歩前に進んでいきます。

店舗情報

HP:http://iwakiyumoto.naf.co.jp/harukiya/welcome.stm
住所:〒972−8325 福島県いわき市常磐白鳥町勝丘118
TEL:0246-43-2724(代) / FAX 0246-43-2727

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