30年間墜落しなかった会社の物語(99%の人のためのアンチヒーロー的起業家回顧録)
第1部「創業までの話」
第1章:30年目のシドニー
オーストラリアに渡る前、私は横浜の超一流企業と呼ばれるシステム会社に勤めていた。
仕事は「スーパーコンピュータの基本システム開発」。今なら「SNS映え100点満点」の肩書きだ。
だが実態は、地味なオフィスで、地味な会議を延々とこなし、地味なコードを書き続ける日々。
閃きで世界を変えるような天才プログラマーの群れが、カタカタと美しくキーボードを叩いている。──そんなのは妄想だった。
そこにいたのは、ごく普通の人間たち。
だが、それが悪いわけじゃない。
数百人が関わる大規模プロジェクトなんてのは、凡人たちが協力して作り上げていけるもので無ければ回らない。
大規模システムとは、そういう地層みたいな仕事の積み重ねで動いている。
待遇も申し分なかった。当時はまだ珍しかった完全週休二日制、フレックスタイム制、産休・育休制度など。
高校時代の同級生と比べれば、年収も福利厚生もトップクラス。だが、当時の私には、満足できなかった。私は信じていた。いや、信じ切っていた。「オレは世界で一番仕事ができる男になる」と。
今思えば、良くもそんな全く根拠のない自信が湧いてくるものだと笑えるが、この根拠のない自信のおかげで、その後の挑戦や経験ができたのだからありがたい。
年功序列の昇給も、横並びの評価制度も、ぬるすぎて我慢ならなかった。毎日私の中の私が囁く。「もっとできる。こんな場所じゃダメだ」と。。。
数ヶ月悩んだが、言い訳が尽きた。そして決めた「辞めよう」。
ちょうどバブルが弾けて、世の中が「安定第一」の空気に包まれていた頃だ。
上司は言った。「もったいないぞ」
父は言った。「考え直せ」
まともな大人たちは口をそろえて言った。「そんな良い条件の会社には、二度と入れないぞ」。
──聞く耳など持たなかった。
だって私は、世界一になるつもりだったから。
ただ、会社を辞めても働かなきゃならない。すぐに再就職しても、今の会社より条件は下がる。
それ自体は問題じゃない。
問題は、それを“知人に知られる”ことだ。
「ただ仕事に我慢できずに転職しただけじゃないか」と思われるのだけは、死んでも嫌だった。
それで、海外に行くことにした。
理由は「誰にも見られない場所で、夢に向けて走り出せるから」。
とはいえ、私は貯金も乏しく、英語も話せない。そんな私が長く滞在できる手段は、ワーキングホリデーくらいしかなかった。現地で働きながら最長1年滞在できる、夢と現実の折衷案。
当時、ワーキングホリデー先として選べたのは、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアの3カ国。
「一番暖かそうだったから」
それだけの理由で、オーストラリアに決めた。
──まさか、数年後に「この国に一生住みたい」と思って、偽装結婚すら本気で考えるようになるとは、夢にも思っていなかった。
オーストラリアに着いて、最初の三ヶ月は語学学校に通った。
少しでも英語を覚えようと、期待に胸を膨らませて通ったが、クラスメイトは日本人ばかりで、授業中も日本語が飛び交い、終わってみれば「Hello」と「OK」くらいしか残らなかった。
そして、金が尽きた。
世界最先端システムの開発ができるくらい凄い技術と知識を持っていると自負していたが、それは大きな組織の中で、リーダーたちが考えて割り振られて極一部の機能のコードがかけるという技術で、組織の外に出ては全く役に立たない技術だった。
そもそも、そのことを英語で伝えることもできなかった。
英語もろくに話せず、技術も資格もない外国人にできる仕事は限られていた。
なんとか見つけたのが、日本食レストランと、ナイトクラブでのアルバイトだった。。。
やむを得ず選んだ仕事だったが、これが新鮮だった。面白かった。
それまで“システム開発”という井戸の中でしか生きてこなかった私にとって、飲食や接客の現場は、まるで異世界。
特にクラブの仕事は面白かった。ホステスの女性たちは、見た目だけじゃなく、話術、気配り、記憶力、すべてがプロだった。人気が出る人には、ちゃんと理由がある。一言で言えば、頭が良いのだ。
「なるほどなぁ……こういう世界があるのか」と、心底感心した。
それまで人間相手よりもコンピュータ相手の仕事が自分に向いていると思っていたが、人間を相手にする仕事の面白さに気付き、20年後にはカウンセラーの資格まで取った。人気ホステスのやっていることはまさにカウンセリングだ。
夜はクラブで働きながら、昼間もあちこちでアルバイトをした。
シドニーの若者たちは、大きな部屋を何人かでシェアして暮らすのが一般的だったから、私も何人もの同居人がいた。
同居人の「ちょっと代わりに入ってくれない?」という頼みがバイトの入口になる。
気づけば、私はケーキ屋の掃除をし、ゴルフ場でキャディをやり、ツアーガイドになり、引っ越しの手伝いまでした。
お金を稼ぐためではあったが、それ以上に「今までやったことのないことをしてみたかった」。
シドニーに来たときから「ビッグになる」「世界一になる」とは決めていたが、実際に何をするのかを考えていなかった。
世界一仕事のできる男をちゃんと評価したり、使いこなせる人間は少ないだろう。無能な上司に指示や評価されるのは嫌だ。そう考えると。。。
「社長になるしかない!」
愚かで短絡的な判断だ。
そもそも、どんなビジネスをするかというアイデアも知識もない中で、先に起業することだけを決めて上手く行くはずがない。
当然ながら起業後は七転八倒するわけだが、それを知っていたら怖くて起業はできなかっただろう。無知で自信過剰すぎた当時の私のおかげで今の自分が存在している。
「若さゆえの無謀」は、成長期に使える最強の武器だ。
シドニーに来てから、1年が過ぎ、ワーホリビザは切れ、別のビザを申請して許可を待つ「ブリッジングビザ」でなんとか滞在していた。いつまでいられるか分からない不安定な身分では、まともな仕事に就けず、金は減る一方だった。
ビジネスを始めるにしてもビザを取るにしても、このままではジリ貧になる。
状況を一気に改善するために、日本に出稼ぎに行くことにした。
目標金額は300万円
最短でそれだけ稼ぎ、一刻も早くオーストラリアに戻ってくる。そう決めて、オーストラリアで日本行きのオープンチケットを買った。
オープンチケットの有効期限は1年間。
このチケットで1年以内に必ず戻ってくると、自分との約束の証だった。
普通のサラリーマン生活に我慢ができなくなって、薄い財布と、夢を持って、日本を飛び出した。1年半経って、財布は更に薄く、夢は更に分厚く膨らんだ。
不安に押しつぶされないよう、虚構でも幻想でもいい、胸の空隙をそれらで満たして生き延びていたのかもしれない。
胸いっぱいにその空気を抱え、日本へ飛び立った。
(つづく)