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卓球人生

これまでの人生で没頭した事①

私が人生で没頭した事は、小学4年から現在まで続けている卓球である。

中学では、部活とクラブチームで活動していたのだが、中学の顧問とクラブチームの監督は指導方針が正反対であった。自分はどちらの指導についていけば良いか、悩んでいた。
中学の顧問にその事を伝えると、「誰の指導が正しいかなんて、世界チャンピオンにしか分からない。だったら、できるだけ多くの人の意見を素直に聞いて、参考になるところをいいとこ取りしたら良いじゃないか。」とおっしゃた。私はその言葉のおかげで悩みが解決した。以降、自分よりも弱い人や、クラブの小学生などにも、どうすれば強くなれるか聞き、しばらく自分で教えてもらったフォームなどが自分に合うか試していいとこ取りを繰り返した。
たくさんの方の指導のおかげで、私は江戸川区大会のシングルス、ダブルス、団体で優勝することができた。
「いろんな人の意見を素直に取り入れ、試し、自分にあったスタイルを見つける」と言う作業はバイトや勉強など色々なところで今も活きている。

中学生の時は、週7日、平日は5時間、土日は12時間練習していた。クラブが休みの日も、部活の仲間と江戸川区のスポーツセンターで練習していた。量のみの練習で、今思えば、とてつもなく遠回りだった。

高校は卓球の強豪校である安田学園に入学した。
高校では週6日で自分の課題を自分で考えて練習しろと言われていた。自分は苦手な技術は少なく、課題は特に思いつかなったので、とりあえず、先輩やプロ選手のマネをした。強豪校に入ると、今まで受けたことのないような強い球を受けるので、自然と卓球が上手くなっていった。自分もこのまま強くなれると思っていた。
しかし2年の秋、関東選抜予選の代表決定戦で明大八王子高校と対戦し、団体のラスト2-2の場面で自分が負け、チームは関東大会に出場することができなかった。
さらに、二番手の後輩も辞めてしまい、(私は三番手)チームの雰囲気も悪くなってしまった。
シード権の関係で、順当に上がれば、半年後にまた明大八王子高校と対戦すると予測できた。安田学園の中で、明大八王子高校の4人のレギュラー選手に勝てる可能性のある選手は、当時エースとやめてしまった後輩の二人であったため、私はその後輩に何度も戻って欲しいと、お願いしたが、彼の意思は硬く、引き戻すことはできなかった。

団体戦では、5番勝負で3番がダブルスでレギュラー4人のうちの強い二人が組むことができる。二番手の後輩が抜け、不本意ながらも二番手になった私がダブルスにも出なければならなかった。ダブルスは長く組むことで強くなるため、正直、明大八王子高校と再戦し勝つことは、不可能だと思った。しかし、先輩達が繋いできた10年連続の関東大会出場の記録を止める訳にはいかないと思っていたし、このチームで関東にどうしても行きたかった。だから、私はこの苦難に立ち向かわなければいけなかった。

 この半年間はとても苦しかった。ここで頑張ることが出来たのには、三つの理由がある。
一つは部長として、後輩を引っ張らなければいけないという責任と、先輩達が繋いできた関東大会10年連続出場の記録を守りたいというプライドである。
二つ目は、一緒に苦楽を共に過ごした仲間と最高の思い出を作りたかったからである。
そして三つ目は、監督の指導方針である、「理不尽を楽しむ。」である。この指導方針は卒業した後に知ったのだが、一年の時から私は顧問に理不尽を受けていた。試合中に笑っただけで殴られたり、ランニングから戻ってくるのに走らなかったため、殴られたり、部長になってからは後輩の不祥事で殴られたりとひどい目にあったりなど、挙げればキリがないが、その中で徐々に理不尽に慣れ、楽しく思えたのである。
以上の三つの理由から、私はこの理不尽な半年間を乗り越えることができた。

この半年間は、とにかく練習の中での意識を変えた。その中で気づいたことは、卓球において、「上手い」と「強い」別だということである。どんなに威力のあるボールを打てる選手は上手いと言えるが、威力のあるボールを打てる展開を作ることができなければ、ポイントに繋がらず勝てない。強い選手とは、威力の高いボールを打たせず、自分が打てる選手と言える。
以前はただただ、ひたすらにプロ卓球選手マネをするして卓球を上手くなろうとしていた。しかしそれでは間に合わないと感じ、明大八王子高校の選手との試合を想定し、相手の得意分野いかに潰すか、いかに自分の得意分野を押し付けるかを考え、練習に取り組んだ。

3年最後の夏、やはり明大八王子高校ともう一度代表決定戦で戦うことになった。1番でエースが勝ち、3番のダブルスをエースに助けられ3−2で勝つことができた。しかし2番と4番が負け、私は半年前と同じ2ー2の5番で、今度は相手のエースと対戦した。私はその試合の中で半年間の対策の全てを出し切り、なんとか勝つことが出来た。リベンジを果たし、チームは10年連続の関東大会に出場する事ができた。その試合は人生で一番楽しくプレーできた。私の試合が終わった時、監督は泣いていた。厳しかった監督の初めて見る姿に私も感極まり涙が止まらなかった。

武蔵大学はゼミが楽しそうだという理由で選んだため、武蔵大学は関東学生リーグの中では4部に昇格したばかりで、あまり強い大学ではなかった。武蔵大学には卓球と勉強で入ることが出来る試験があり、高校時代にある程度良い成績を残した選手が集まっていたので、三部に昇格したいと意気込んでいた。しかし先輩方はあまりやる気がなく、卓球で大学に入ったから続けているというような人ばかりで部活をサボり遊びに行ったりとまるでサークルのような、振る舞いだった。私はそれでも、大学で続けるくらいなら、なんだかんだ卓球が好きなんじゃないかと思いたかったし、周りに努力する人がいれば、一緒に頑張ろうと思う人もいると思い、私は練習終わりにジムに行こうと先輩を誘った。また、高校の時代の自分には考えられないが、先輩に対して直接物申す事もあった。それでも先輩方は活動に来なかった。どんなに一人で努力しても、大学のリーグ戦はチーム戦である以上あるため、勝つことは出来ない。だから先輩方にも頑張ってもらいたかったのだが、3部に昇格したいと思っていたのは私だけで、それ以外の先輩方にとって、大事なことはバイトや遊びであった。私はどんな人に意見も一度は取り入れるべきだと思っているので、私は先輩の遊びについて行くことにした。先輩は私をパチンコに連れて行ったのだが、確率でお金が増えたり減ったりする遊びの何が面白いのか私には理解できなかった。
チカチカするパチンコ台を眺めながら、私は相手をどんなに奮い立たせようと努力しても、目標が同じでなければ、共に頑張ることが出来ないのだと気づいた。
私は個人での目標としていたリーグ戦で5戦全勝するという目標を達成したこと、そして新しく見つけたプログラミングという趣味に時間を使った方が有意義だと感じ、武蔵大学を三部に昇格させたいという未練はあったが、「部活を退部したい」という旨を顧問に伝えた。顧問はありがたいことに、休部でもいいから、やる気のある一年生が入ったら、また戻って来てくれと提案してくださった。ここで感じたことは、努力を見ていてくれる人は必ずいるということ。どんな人とも、後に関わる可能性があるので、「人との別れ際こそ、丁寧にするべき」なのだということだ。そのお陰で現在、部活に気持ちよく復帰することが出来た。

現在はコロナウイルスのせいで試合が中止になり、また、卓球から離れてしまっているが、三部に昇格したいという後輩が入り、雰囲気もいいので、このチームで卒業までに三部に昇格したい。

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