1
/
5

新卒で入った会社を10ヶ月で逃げ出し、マンガ喫茶生活を経て通販で起業するまで

淳也です。ウォンテッドリーの管理画面を見ていたら創業した理由書けって出てきたので書きました!

夢見たオリンピック

僕は小学校4年生の頃からテコンドーという格闘技をしていました。大学はテコンドー日本一の強豪、大東文化大学へ。4年間テコンドー漬け。オリンピックを目指して僕なりに頑張る日々でした。ユニバーシアード競技大会に出場したりしました。でもある日、夢だったオリンピックを諦めてしまう「ある出来事」が起こったのです。


自分には競技を続ける資格はない

ある試合の日、僕の1個年下で長く日本代表をしていた子の試合を見ていました。試合の途中、彼は何度も吐いていました。極限まで減量をしていたんだ と思います。僕は彼のそんな状態になってまで食らいついて戦う姿を見て、自分がテコンドーをやっている事すら申訳なく思いました。これは本当に衝撃的に覚 えています。
「自分にテコンドーを続ける資格はない。競技を続けたとしても彼に勝てるわけがない」その時は本気でそう思ったのです。自分では全力でやっていた“つもり”だったのですが、甘かったんだと思います。そう思わせる程、彼の試合中の姿は鮮明に僕の脳裏に焼き付いています。


これが2008年の頭頃の出来事だったと思います。その日の試合は無惨な形で負けました。アジアテコンドー選手権のテコンドー日本代表選考会。これが僕のテコンドー人生最後の試合になりました。※下は大東文化大学テコンドー部の仲間たちとの写真。痩せてたなあ…


福岡のベンチャー企業にUターン就職



2011年福岡に戻りとある縁を頂き「社員3名の映像制作会社カウテレビジョン」で働き始めました。地元の先輩の紹介で入社。社長(通称TAKAさん)はテレビ局の元ニュースキャスター。とにかく頭が良く思考の回転が速い。 僕はTAKAさんの元、小さなベンチャー企業で1年弱、しごかれました。 当時 僕が住んでいたのは実家がある福岡県宗像市。見渡す限り田んぼの田舎街です。
そこから博多区天神にあるピエトロビルまで電車で通って仕事をしていました。
テコンドーで培った体力があったので体力面できついと感じた事は一切なかったです。
仕事が終わって、毎日地元で深夜まで飲んでも朝起きるのは何にもきつくなかったし。睡眠時間3時間とかでも“体力的には”全然辛く無かった。 逆に入社1ヶ月目で鈴鹿サーキットに取材に行かせてもらったり、翌月にはタイ・メーホーソンというワケの分からない土地にまで連れていってもらって遭難しかけたり。東京の国際宝飾展で行われたベストジュエリードレッサー賞で芸能人を撮りまくったり。自分がカメラの前でリポートしたことも。今までの人生とは全く違う経験で刺激的な日々。大変でしたが、とても楽しかった記憶があります。

イエスマンだった僕は、次第に疲弊していく

「はい!」
「わかりました!」
「ありがとうございます!」 これが僕の印象だったのかな。元気があって、レスポンスも早いTHE体育会系。
テコンドーの時の感覚が染み付いて取れなかったんだと思います。 何を言われても断らないし(断れない)何を言われても同調する方向性で答える(機嫌を伺う)今思うと本当に甘い考えだったと思う。 社内で社長しかいなかった営業という大役も新人の僕が少しずつ担う方針になった。
その理由は「適正検査の結果が僕だけ営業向き」だったから(汗 基本的に行う仕事は「社長室101」という地場の企業のインタビュー動画を制作すること。 電話のアポ取りは、相手の会社の事業内容も理解出来ていないのにやってました。
要領も悪いし、取材先の社長の名前は間違えるし散々な日々だった(全て自分が悪いが、めちゃくちゃ怒られまくった 笑) とにかく毎日怒られるのが怖くてビクビクしていました。社長に声をかけられるだけで心臓がバクバク。電話は社長が席を立った時にかけるように無意識に社長の動きばかりに意識がとられていた。とにかく怒られたくない、怒られたくない、それだけしか考えてませんでした。 そんな日々が続き少しずつ自分の中に変なストレスが溜まっていきました。行きの電車では何度も吐きそうになったり、途中下車も何度もしました。
目の前に座ってたおっさんめがけてぶっ倒れ、香椎の駅員室に連れて行ってもらった事もあった。会社に行くのが恐怖だったのかも。朝オフィスの扉を開ける時、いかに気合を入れて開けるのかが日課でした。 帰る前に行う社長との対面の営業トレーニング(シュミレーション)は最高にきつかったです。ヘビに睨まれたカエル。何を言ってもダメ。今考えるとあ のメンタルでやって上手く行く事なんていっこも無いと思う。本当に未熟でしたね。最後は気づかれないようにこそっと帰ったりしてました(気づかれてました が) そんな日々が続いて、僕の神経はどんどんすり減る。減る。減る。そして自信を失っていきました。
今考えるとあの時、なんで周りに相談しなかったのかなーって思う。相談するって思考が全くなかった。負けずぎらいだったから。やっぱり“何も出来ない自 分”を認めたくなかったんだと思う。親にも、兄にも、社長にも、友達にも言わなかった。そして僕は社会人として恥ずべき愚行を行う事になります。

僕は、逃げた。

ある朝、出勤するため家を出て東郷駅へ。気づくと会社と逆方向の電車に乗っていました。これは冗談でも何でもないのですが本当に気づいたら反対方面の電車に乗っていたのです。嘘じゃないです(笑 そして北九州・門司港まで行った。海が見たかったのかな(昔から釣りが大好きで魚が釣れなくてもぼーっとしてるだけで楽しい)スーツを着て、海辺を ずーっと歩いていた記憶がある。他に何したかは覚えてない。会社にはインフルエンザってメールしたのかな?(この辺の記憶は本当にうろ覚えです。)


しかし、翌日もやってくる。普段通り朝起きて、スーツで家を出る(実家暮らしでした)親にも「会社に行ってない」とは言いたくなかった。ただ逃げ出した日か次の日か、地元の親友達と飲みに行ったのは覚えてます。 「俺、明日から東京行って飲食やる」「東京で起業したいっちゃん」 そんな感じの事を稗田/コウタ/けいじの3人に宣言したと思う。現実は「ただ逃げたかっただけ」ただの言い訳。翌日、会社にも親にも言わずに東京に飛んだ。
全てから逃げた。福岡から逃げ出したかった。自分を守る方法がそれ以外見つからなかったから。とにかく一刻も早く現実逃避したかった。東京に降り立った時、僕の心は何かから解放された気分になっていた。

漫喫での生活


全財産18万円(たった…)をポケットに詰め込み、テコンドー時代の相棒グレゴリーのボストンバッグに「服」と「本」を数冊入れた。 結局、僕は漫画喫茶で暮らす事になる。数日泊まらせてもらおうと思っていた友人からの連絡は途絶え、埼玉の川口駅近くにある漫画喫茶で訳1ヶ月を過ごした。アルバイトは東京に来るタイミングでネットで見つけてて応募していた。居酒屋(銀座・蔵の桜)だったので仕事は夕方から。満喫にいるとお金がかかるので、昼間は職場近くのマックで毎日5、6時間をつぶしていた。新橋のSL広場にあるマック。ホームレスのおっちゃんががよく隣に座っていた。当時の愛読書は「思考は現実化する」 自分は少しでも前を向いていると“思い込みたかった”ので、自己啓発ばかり読んでいました。惨めで嘘つきで言い訳だらけの日々でした。親の電話も全 部無視。会社からのメールも全て無視。読まずに消したメールも沢山あります。かろうじて兄にだけ生きてるってコト、メールしたと思います。 ある日、自分の状況を東京に住んでいた中学の同級生に相談した。そしたら「じゃあウチに住めよ」って。 6畳のワンルームで“3人”暮らしが始まりました。なぜ3人かというと友人は彼女と同棲していたから。彼女は「みほ姉」 いくら彼氏の親友といえ、ワケの分からん男が急に一人来て6畳ワンルームで暮らす事にストレスが無かったはずはない。シングルの布団で川の字で3人で寝る。みほ姉・友人・僕。今考えたら本当に空気読めてないですね。申訳ないです。でも、ありがとう。 それでもバイトから帰りると「じゅんやくん、ご飯あるから食べなー」って食べさせてくれる。食費もほとんど工面してもらっていました。そして一番あ りがたかったのは【二人が僕の状況を何も聞かないってこと】とにかくそっとしてくれていた。後から2人に聞いた話だと、聞いたらヤバいんじゃないか、とい う空気が漂っていたらしい。2人には本当に頭が上がらない。ありがとうございます。これから一生かけて少しずつ恩を返していくね。


そんなアネゴ、みほ姉は今、美人姉妹と二人で花屋さんを経営している。とてもお洒落なフラワーアレンジメントのお店。(本当に素敵で早速お母さんに贈りました) 精神的に一番辛かった時、腐らず生き延びられたのは当時関わってくれた友人・知人・家族のおかげと思う。その時ばあちゃんから届いた2通の手紙にも励まされた。今でも大切にしまってます。 【スープカレーを作る日々】 そんな日々が続き、これじゃダメだと思って居酒屋と掛け持ちでスープカレー屋でバイトを始めた。
超繁盛店のスープカレー屋だったのですが1歳年上の店長にすごくかわいがってもらって、とにかく仕事が楽しかった。スマートな店長で、飲食のイロハを叩き込みながら僕を指導してくれた。少し職人気質な所はあったがセンスはずば抜けていた。




兄と幼馴染が、起業

バイトの日々を過ごしていたある日 兄貴と幼馴染みが2人(共同代表)で福岡で車のタイヤ・ホイールを売る会社(株式会社カイショー)を立ち上げた。びっくりした。兄はそんなタイプじゃないって勝手に思っていたから。(兄の会社の運営サービス:タイヤホイールの買取専門サービス 釣具の買取専門サイト) 僕は興味津々。すぐに電話した「1ヶ月手伝わしてよ、給料はいらんけん」
そういって僕は兄達の会社の手伝いに約1ヶ月間、福岡に戻った。 とにかく彼らは楽しそうだった。 毎日会社に行って笑って、笑って、笑って、仕事をバリバリこなす。今でも思うが、僕の考える理想のチームだし、誰に何を言われようと自分達の信念だけは決 して曲げないスタンスだ。つい先月会社に遊びに行った時も立ち上げ当初と全く同じ空気を感じた。もっと彼らの生き方を学びたい。※3人で釣りに行った時の 写真。


当時 兄から言われた言葉で印象的な言葉がある。
「起業して、朝起きて仕事に行きたくないって思った事ないけんね」この一言に嘘偽りは一切無いと思う。それは二人を見ていればすぐにわかる。

「お前、何しに来たとや?利益ぐらい作れ!」


僕は車の事はさっぱりわからない。それなのに毎日タイヤの会社に行って何をするのか?
雑用しか出来なかった。タイヤを洗ったり、振込に行ったり、梱包したり。 そんな時、兄貴が僕にこんな事を言ったのを覚えている。
「お前、なんか自分で利益出せ。会社の金使っていいけん、自分で稼げ」
僕は少し考えて「うん、分かった」そんなやりとりだったと思う。 それが今の事業を始めるキッカケ。会社のお金を使わせてもらい洋服を仕入れて売る。当時は利益こそ出せなかったが、元手は取り返せたような気がする。そんでまぁ一人が暮らしていくにはこれぐらいで十分なのかなーって思い東京でも続けてみることにした。 東京に帰って貯金100万を全て仕入れにまわした。兄貴からも100万円借りて全て仕入れにまわした。月末の支払いが出来そうになく何度も兄貴やばあちゃんに頼ったりした。とにかくがむしゃらだった。資金繰りなんて考えた事無かった。今思えばデタラメだったなあ。 そんなこんだで、一人じゃ大変になったから仲間を増やして株式会社にした。職業訓練で修行していた大学の同級生も入ってくれた。それから少数で訳もわからず働きまくった。とにかくがむしゃらに。今は三期目に突入している。


こんな自分でも会社を作って心から大切にしたいと思える仲間が出来た。本当にスタッフに支えられている。人は誰でも波があったり、逃げ出したくなっ たり、実際に逃げだしたりすることはあると思う。でも僕は自分自身が大きな挫折・失敗を味わったからこそ、そんな人たちの気持ちが本当にわかってあげられ るのではないかとも思う。 「夢」というか、なりたい自分を見つけられたら最高に幸せだと思う。(僕自身、理想の自分にはまだまだ、全然なれてないけど)それが見つかっていな ければ、見つかるまでグダグダ生きてていいと思うし。ただそれが見つかったなら、今度は本気でそれに向かって突き進めばいい。だからこそ、そんな時に支え 合っていけるような仲間をたくさん見つけられたらいいと思う。


ちなみにタナクロは超ざっくり言うとファッションとITで面白いことをやろうぜ!という会社です!(運営サービス:バーバリー通販バーバリー買取ゴスロリ通販ロリータ服買取ネクタイレンタル、  メンズファッションニュースサイト、 アウトドア用品の買取専門店ブランド買取ウレルDIY工具メディア TOKYO CRAFTS キャンプブログ

よろしくお願いします!

株式会社タナクロ's job postings
12 Likes
12 Likes

Weekly ranking

Show other rankings
Like Junya Tanaka's Story
Let Junya Tanaka's company know you're interested in their content