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【代表インタビュー前編】出発点はエンジニア。日本法人代表を経て、ライバル企業とまさかのタッグ! アジアパシフィック地域で4万人を抱えるエキスパート集団を作るまで

パクテラ・テクノロジー・ジャパン採用担当です。パクテラグループは、グローバルで4万人を超えるエキスパートの集団として、ビジネス/ITコンサルティング、ソリューション、アウトソーシングサービスを、数多くのクライアントに提供しています。

今回から2回にわたって、その日本法人パクテラ・テクノロジー・ジャパン代表取締役会長兼社長・李勁松(Li Jinsong)のインタビューをお届けします。

前半では、中国・大連で過ごした子ども時代から、エンジニアとして日本と出会ったエピソード、そしてパクテラグループ創立までの歩みを聞きました。ぜひ最後までお読みください!

海とサッカーを愛していた子ども時代。日本企業との仕事で多くのことを学んだ!

―― どのような幼少期を過ごされましたか?

出身は中国・大連です。小学校から大連海事大学の付属校に通っていましたが、とにかく遊ぶことが大好きで、勉強嫌いの子どもでした(笑)。サッカーで駆けまわったり、友だちと海に泳ぎに行ったり…。大連は三方を海に囲まれた港湾都市なので、海はとても身近な存在だったんです。

―― 大学ではどのような分野を学ばれたのでしょうか?

大連海事大学では、情報工学を専攻しました。ただ正直なところ、情報工学を選んだことに深い理由はなく、歴史など覚えて学ぶ科目があまり得意ではなかったので、受験のとき理系を選択したのがきっかけです。

―― 大学卒業後、どのような企業でキャリアをスタートされたのですか?

1991年に卒業したあと、いったん大学のデータセンターに残りましたが、同年、大連海事大学が川崎重工業と提携して学内に開発会社を設立しており、翌92年、私もその企業に二期生として入社し、エンジニアとして勤務しました。当時は大学から就職先を斡旋されることが多く、私も教授からの紹介という流れで入社しました。90年代前半、中国に進出して工場を建設する日本企業は多かったのですが、ソフトウェア開発会社を設立するのは非常に珍しかったと思います。

また、当時は今と違って海外に関する情報が少なかったこともあり、正直言って、日本に特別な興味があったわけではなかったんです。でも実際にお会いした川崎重工業のみなさんはとても良い方たちばかりで、ここから私と日本との関係がスタートしました。川崎重工業さんとの仕事で日本語を学び、おかげさまで日本の仕事のやり方を身に付けることができました。

―― その後のキャリアを教えてください

最初の会社に5年間在籍したのち、1997年、現在のパクテラの前身、『hiSoft(ハイソフト)』に移りました。当時はまだ『海輝(かいき)』という名称でした。海輝は、1990年代後半から日本および中国のIT需要が急速に増えて大きな波が来たため、大連海事大学の代表が1996年に設立した会社です。設立当初のメンバーはわずか7名。引き続き、川崎重工業さんの仕事を受けたり、中小企業の仕事を受注していました。

エンジニアから、“人と仕事をする”営業、そしてリーダーへ!

―― エンジニアからビジネスリーダーにキャリアチェンジされたのはいつごろですか?

転機は1998年、日本の東証一部上場企業『JBCCホールディングス』と海輝でジョイントベンチャーを設立したときです。私は当時、“ブリッジSE”とよばれるエンジニアとして日本側と中国側の橋渡し役を担っていたのですが、ボスから「お前は機械と仕事をするのは向いていない。人と仕事しろ。営業をやれ」と言われたんですね。長らくエンジニアとして働いて来たため、どう営業すればよいのか全くわからなかったのですが、2000年代初頭は開発パートナーを探す日本のSIerが中国に押し寄せていたので、ただ対応するだけで顧客が増えていくという状況でした。

その波を受けてジョイントベンチャー以外の仕事も少しずつ増え、本格的に日本向けの仕事が拡大。さらに成長するため自前の支社を立てることとなり、2002年、現在の日本法人の前身、『海輝科技ジャパン』という日本法人を立ち上げました。私が代表を務め、メンバーは5、6名ほどでした。

―― 海輝科技ジャパンを立ち上げた当時の印象的なエピソードはありますか?

日本法人の代表を務めるにあたって、経理や税金、給与の支払い、契約、採用など知らないことばかりだったので、税理士や司法書士に聞きながら様々なことを勉強しました。契約書は当然、日本語でしたが、中国の海輝本社に送ってリーガルチェックをお願いすると、逆にボスから自分でチェックしろと戻されてしまい、分厚い契約書をひとつずつ読み、自分で交渉したりもしました。

メンバーが少なかったため、社長といえども何でもやらなくてはならず、オフィスの掃除も私の仕事でした。やったことがないことを手当たり次第に任されて当時は大変でしたね。みんなサポートはしてくれましたが、私が自分でやらないといけないことが多く、しかも即決を求められる事項も多かったので…。でも今、振り返るとあの時代、そういったチャンスをもらえたのは非常に有意義なことだったと思います。自分自身が成長する、非常にいい機会になりました。

さらなる飛躍を目指し、ライバルとタッグを組んでパクテラグループが誕生!

――海輝からhiSoftになった経緯を教えてください

時代のトレンドに乗って日本も中国もIT事業が急成長し、海輝科技ジャパンの売り上げも二年目で10倍を記録するなど急激に業績が伸びました。当時の海輝の経営陣には、さらにビジネスを成長させてグローバル企業となり、上場を果たしたいという思いがあり、2004年ごろからベンチャーキャピタルの投資を受けてM&Aを開始。アメリカの保険企業や東南アジアの会社を傘下に入れて、グループを形成していきました。社名をグローバルで浸透しやすい『hiSoft』に変更したのもこのころです。

また、2006年にはプロフェッショナルのCEO・Tiak Koon Lohをグループに迎えました。創業者が若いうちに経営から手を引いてプロフェッショナルのCEOを雇うことは、当時の中国系企業では珍しく、今もそう多いことではありません。シンガポール出身の彼は現在もパクテラグループのCEOを務めていますが、もともとIBMやHPなどグローバル企業の経験があり、彼がM&Aをさらに加速。2010年、米国ナスダックに上場を果たしました。1996年、わずか7人でスタートしたhiSoftでしたが、その頃には6000~7000人規模に成長していました。

――では、パクテラ誕生の経緯を教えてください

パクテラは2012年、hiSoftとライバルの『VanceInfo』社が合併して生まれました。VanceInfoは、hiSoftとよく似た事業内容の会社で、1995年に米国向けの事業からスタート。やはりベンチャーキャピタルを入れてM&Aでアメリカ、日本、ASEANで成長を遂げ、2007年末、ニューヨーク証券取引所に上場しました。

VanceInfoとhiSoftの2社はずっと中国国内で切磋琢磨していたのですが、2012年、50%-50%で対等合併。どちらの色も強くならないよう“パクテラ”として新たにブランディングすることとなり、現在のパクテラグループが誕生しました。

日本の事業は、私が代表を務めていたhiSoftの日本法人にVanceInfoの日本オペレーションを統合し、それがパクテラ・テクノロジー・ジャパン、パクテラ・コンサルティング・ジャパンへと進化していきました。そして私自身は、2018年にパクテラグループのアジアパシフィック地域のビジネスグループの責任者に着任。現在、日本、東南アジアなどの市場における事業を統括しています。

李代表のこれまでの経歴と、パクテラグループの誕生についてのストーリーはいかがでしたか? 後編ではパクテラ・テクノロジー・ジャパンの現在の主力事業やカルチャー、そして今後の展望や転職者へのメッセージなどをお届けします。ぜひ後編もお楽しみに!

また、興味を持ってくださった方、一度お話してみませんか? ご興味のある方はぜひ、募集ページより採用情報をご覧ください!

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