皆さん、こんにちは! インド出身のアビタです。
今、私は日本で暮らし、立命館アジア太平洋大学で学びながら、Travel Japan Togetherでトラベルデザイナーとして働いています。
今の自分の人生を振り返ると、どうやってここまでたどり着いたのか、自分でも時々信じられなくなることがあります。
私はインドのローワーミドルクラスの家庭で育ちました。女の子として生まれた私は、すべてのチャンスが当たり前のように自分に与えられるわけではないということを、幼い頃からなんとなく理解していました。
家族は教育をとても大切にしてくれていました。でも、経済的な余裕には限りがありました。だから、もっと先へ進みたいのなら、自分で道を見つけなければならなかったのです。
すべての始まり。まだ世界の広さを知らなかった頃の私。
私と奨学金との長い付き合いが始まったのは、小学6年生の頃でした。
当時の私は、その奨学金が後の人生でどれほど大きな意味を持つことになるのか、まだよく分かっていませんでした。ただ一つ分かっていたのは、
一生懸命勉強すれば、自分の未来への扉が開くかもしれない。そして家族の経済的な負担も少し減らせるかもしれない、ということでした。
年月が経つにつれて、奨学金は私にとって単なる経済的な支援ではなくなっていきました。それは、「可能性」そのものになっていったのです。
一つひとつのチャンスが、私に教えてくれました。
「どこからスタートしたか」が、「どこまで行けるか」を決めるわけではないのだと。
そしていつの間にか私は、人とは少し違うことに挑戦してみたいと思う人間になっていました。
まあ時々、「少し」どころではなかったかもしれませんが。
16歳、世界を見てみたかった。
16歳のとき、まるで夢のようなチャンスが突然やってきました。
アメリカ政府の支援による全額給付のプログラムを通して、アメリカへ行く機会を得たのです。私にとっても、家族にとっても、アメリカはまるで別世界のような場所でした。
その頃、父に言われた言葉を今でも覚えています。
「Thagudhikku meeri aasa padadha.」
タミル語の表現なので、日本語にぴったり訳すのは難しいのですが、あえて言うなら、
「自分の手の届かないものまで夢見るな」というような意味です。
父がそう言ったのは、私を信じていなかったからではないと思います。
今振り返ると、父が感じていた不安が、あの頃よりずっとよく分かります。
私たちは、大きなリスクを簡単に取れるような家庭ではありませんでした。
16歳の娘をたった一人で世界の反対側へ送り出すなんて、家族にとっては未知のことであり、怖いことでもあったはずです。しかも、当時の私のことです。
きっと両親の心配を減らすような行動をしていたとは、とても思えません。
それでも、私は挑戦してみたかった。
そして16歳の私は、世界を越えてアメリカへ行きました。
16歳の私を迎えてくれた、アメリカのホストファミリーと。
「自分には手が届かないこともある」と思いながら育ってきた少女が、突然、地球の反対側で暮らしていました。
まったく違う背景を持つ人たちと出会い、それまで想像の中でしか知らなかった世界を、自分の目で見て、自分自身で経験していたのです。
その経験は、私の中の何かを変えました。
世界が、突然とても大きく見えるようになりました。
でも不思議なことに、同時に、それまでよりずっと「手の届く場所」にも感じられるようになったのです。
インドへ帰国したとき、私はもう分かっていました。
これからも、自分にとって「当たり前」や「慣れた場所」の外へ出続けたい。
私は、グローバル・シチズンになりたいと思うようになりました。
16歳の私が、「グローバル・シチズン」という言葉の意味を本当に理解していたのか?
……たぶん、していません。でも、もっと世界を見たい。もっと学びたい。
そして、これからも自分自身に挑戦し続けたい。
その気持ちだけは、はっきりしていました。
そして、日本へ
数年後。
どうやら私にとっては、アメリカでもまだ遠さが足りなかったらしく、今度は日本へ行くことにしました。
18歳のとき、100%の奨学金をいただき、立命館アジア太平洋大学で学ぶために日本へやってきました。
インドで育った私が、18歳で日本へ。夢への新しい一歩を踏み出したAPUで。
それもまた、かつての私なら「自分には到底手が届かない」と思っていたようなチャンスでした。日本に来ることは、ワクワクすることでした。
でも、日本で実際に「生活する」というのは、まったく別の話でした。
18歳。
知らない国。
知らない言葉。
知らない文化。
知らない人たち。
知らないルールや期待。
そして、新しい責任が山ほどありました。
大学生活は、私の日常のほんの一部にすぎませんでした。
勉強をしながらアルバイトをして、お金を管理し、日本社会に慣れ、少しずつ自分のことを自分でできるようになっていきました。そして、すぐに気づきました。
「自立」という言葉は、実際に家賃や生活費を払い、働き、勉強し、料理をし、掃除をし、そのうえ今日が何曜日なのかまで覚えていなければならなくなる前のほうが、ずっとカッコよく聞こえるものなのだと。
「日本に来られて、本当に幸せだ」
そう心から思える日もありました。
でも、何もかもが重たく感じる日もありました。
時々、自分が広い海の真ん中に突然放り出された18歳の女の子のように感じることがありました。
岸は見えない。
どちらへ泳げばいいのかも分からない。
ただ一つ分かっていたのは、
止まるわけにはいかない、ということでした。だから、私は泳ぎ続けました。
少しずつ、日本での生活は私に「自立すること」を教えてくれました。
言いたい言葉が見つからなくても、なんとか人とコミュニケーションを取ること。
助けを求めること。
失敗すること。
そして、もう一度やり直すこと。
まったく違う背景を持つ人たちと一緒に働くこと。
自分が何をしているのか完全には分からないときでも、とにかく前へ進むこと。
そんなことを、日本での日々から学びました。
国籍は違っても、笑うときはみんな一緒。
そしてもちろん、人生はいつも、自分が思い描いた計画通りに進んでくれるわけではありませんでした。
日本で自分の人生を築こうとしていたその途中で、私は父を亡くしました。
あの時期、家族から遠く離れた場所にいることは、私の人生の中でも特につらい経験の一つでした。
そしてその経験は、「責任」「家族」、そして「大人になること」に対する私の考え方を大きく変えました。
16歳の頃に父から言われた言葉は、ずっと心の中に残っていました。
でも時間が経つにつれて、その言葉は私の中で少しずつ違う意味を持つようになりました。
「自分の手の届かないものまで夢見るな」
あの頃は、父も私も知りませんでした。
その夢が、私をいったいどこまで連れていくことになるのかを。
Travel Japan Togetherとの出会い
卒業が近づくにつれて、ある問いがどんどん大きくなっていきました。
「この先、私はどうするんだろう?」
その頃には、自分がどんな仕事をしたいのか、少しずつ分かるようになっていました。
人とつながりたい。文化とつながっていたい。
そして、自分の世界の外側にある、もっと広い世界と関わり続けられる仕事がしたい。
そんな道を探していた中で、私はTravel Japan Togetherと出会いました。
TJTに加わったことで、それまで別々に存在していたように思えた私の人生のさまざまな部分が、不思議なくらい一つにつながりました。
海外での経験。
人への好奇心。
旅が好きだという気持ち。
そして、何年もかけて少しずつ「自分の居場所」と呼べるようになってきた日本。私は、とても国際的なチームの一員になり、今でもほとんど毎日のように新しいことを学んでいます。
ある日は、日本について新しいことを学びます。
ある日は、旅行業界について学びます。
そしてある日は、1時間かけてやった仕事が実は15分で終わらせられたのではないかと気づきます。
まあ、それも勉強です!
でももしかすると、それこそが私がここで一番楽しんでいることなのかもしれません。
私は、知らないことだらけの状態でここに入りました。
そして今も、学ばなければならないことがたくさんあります。
日本というまったく知らない国を必死に理解しようとしていた18歳の私は、今では23歳のトラベルデザイナーとして、世界中の人たちがこの国を体験するためのお手伝いをしています。
こうして文章にしてみても、まだ少し現実とは思えないような気持ちになります。
何年もの間、私は自分自身の道をつくろうとしてきました。
そして今は、誰かの「旅」をつくる仕事をしています。
自分の物語をつくることから、誰かの夢をデザインすることへ。
振り返ってみると私の人生は、とても最初から計画できたようなものではありませんでした。
私はインドのローワーミドルクラスの家庭に生まれ、小学6年生の頃から奨学金を受けながら勉強してきた女の子でした。
16歳のとき全額給付の交換留学プログラムを通して、世界を越えてアメリカで暮らしました。
18歳のとき、また一つの奨学金が私を日本へ連れてきてくれました。
そして23歳になった今、私は人生の中でも特に大きな節目の一つを迎えようとしています。
卒業です。
私は、家族の中で初めて海外の大学を卒業する人になります。
そして卒業後は、ここ日本で社会人としてのキャリアを歩み始める準備をしています。時々、昔の自分のことを考えます。
奨学金をもらうために、
一生懸命勉強していた小さな女の子。
初めて世界を越えようとしていた16歳の私。
日本に降り立ち、
「これから全部、どうやってやっていけばいいんだろう?」
と途方に暮れていた18歳の私。
そしてもちろん、父のことも考えます。
もし今の私を父が見ることができたなら、一つだけ伝えたいことがあります。
「Appa(お父さん)、私ね、あの頃の私たちが思っていた『できること』の、その先まで夢を見たよ。」
この道のりが簡単だったからではありません。怖くなかったからでもありません。
ましてや、最初から何もかも分かっていたからなんて、絶対にありません。
ただ私は、自分には少し大きすぎるように思えるチャンスがやってくるたびに、
「やってみよう」と言い続けただけです。そして不思議なことに、
一つのチャンスが、また次のチャンスへとつながっていきました。
今の私は、自分がもう「成功した」なんて思っていません。
まだ23歳です。知らないことは、まだまだたくさんあります。
まだ見たことのない日本もたくさんあります。
そして、これから見てみたい世界も、まだまだ広がっています。
でも「自分はいったい、どこまで夢を見てもいいんだろう」
そう考えていたあの頃の女の子が、今の私を見たらきっと少しは誇りに思ってくれるんじゃないかなと思います。
何年もの間、私は自分自身の夢をどうすれば叶えられるのか、その道を探し続けてきました。
そして今、Travel Japan Togetherで、誰かが思い描いている「日本へ行く」という夢を、その人だけの旅に変えるお手伝いをしています。それってとても特別なことだと思うのです。
18歳の私は、自分が広い海の真ん中に放り出されたような気持ちでした。
どうにか泳ぎ方を覚えて、必死に岸までたどり着こうとしていました。
あれから4年。もしかしたら、私はまだ岸にはたどり着いていないのかもしれません。
でもそもそも、たどり着く必要なんてないのかもしれません。
ただ、少し泳ぐのが上手になっただけなのかもしれない。
とはいえこの例えには一つだけ、小さな問題があります。
「実は私、本当に泳げません。」
そう考えると、ここまで来られたことはむしろ結構すごいのかもしれません。
冗談はさておき、これから先この流れが私をどこへ連れていくのかは分かりません。
でも今はそれでいいと思っています。
私はまだ、学んでいます。
まだ、夢を見ています。
そしてどうやらまだ、泳ぎ続けています。