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日宣の歴史を振り返る|創業者から現社長に至るまで

日宣は2024年で創業77年を迎えます。今回のブログでは、創業から現在までの日宣の歴史を紹介していきます。時代が移り行く中で、どのように変遷したのか。創業者から3代目である現社長に至るまでの歴史を辿っていきます!

創業者 大津健二郎

株式会社宣伝五洋社創業

 日宣の前身となる「宣伝五洋社」は神戸・三宮にて、学生時代の友人と義弟の3人で、1947年に創業した。

 戦後に活況となった造船業に関連した「進水式」のセレモニーを請け負う仕事が、創業当初の主要事業であった。デザインの専門技術を生かして、くす玉、ポスター、絵葉書など進水式に関連するすべてを手掛けていた。また、戦後の日本で初となるファッション・モデルの元祖、マネキンガール派遣を当社が行うなど、舞い込む仕事はどんなものにも挑戦していった。戦後の復興が進むと、街も賑わい、デパートの催事の企画、制作や運営などの依頼も増えてきた。図案家としての仕事を超えたビジネスを展開することで、地場の得意先を順調に伸ばしていく。

日本宣伝工業を設立し大阪の中心部へと進出する

 1953年、日本宣伝工業株式会社を設立。当時、一流ビルであった大阪駅前の新阪神ビル(現:ハービス大阪)にオフィスを構えた。地場の神戸では順調に得意先数を伸ばしていたものの、大阪では得意先が少なく、苦しい日々が続いた。大阪での得意先を開拓するために当時大阪で盛んだった繊維産業に目を付け、そこにアプローチをかけ続けた。その結果、繊維産業の大手企業との取引が増え、事業の柱へと成長、基盤が出来上がっていった。

厳しい時代を乗り越え、ホンコンシャツを制作

 1960年、先取の精神を重んじていた健二郎は、ビジネスのチャンスを掴むために香港に出張する。今でこそ海外を見据えたビジネスは一般的であったが、当時はまだまだハードルが高い挑戦であった。滞在中、街を歩いていると半袖のワイシャツ姿の人々がいることに気付き、関心を抱く。

 日本の蒸し暑い気候にも有効的な商品ではないかと考え、日本に戻った後、その話を当時の得意先に持ち込んだ。偶然、得意先でも同様のことが研究開発されていたことも相まって、発売に向けたプロジェクトが始まる。当社は、広告会社として、ホンコンシャツというネーミングをし、当時から輝かしかった香港の夜景をデザインしたパッケージをカラーで制作したことで、大きな恩恵を受けた。

 創業から10年間、資金繰りが厳しい時代が続いたものの、ホンコンシャツによって大きく成長。最盛期には、工員100人程雇うほどの規模となり、後の東京進出の足掛かりとなる。


2代目 大津穰 

伸長する東京での仕事

 得意先の宣伝部が東京に移ることになり、当社も東京・湯島に営業所を開設することになる。このころ、高度成長期で、第1次住宅ブームを迎える中、旭化成も住宅事業を始めた。当時、制作していたカタログが旭化成の方の目に偶然留まり、住宅事業立ち上げ時からカタログ制作を中心に取引が始まった。

 1980年代には、カタログ制作だけに留まらず、住宅展示場への集客や営業支援ツールの制作も手掛けるなど、広い範囲で旭化成との強固な関係性を築いていった。

 旭化成とは現在も取引が続いており、ツール制作に留まらず、マーケティング・コミュニケーション領域も含めて多岐にわたるソリューション提供をしている。クリエイティブにこだわるマインドは、創業からしっかりと受け継がれている。

放送通信業とのかかわり

 1982年、大津穰が2代目社長に就任。大津穰が1970年代に、総合商社の方と米国視察に訪れる。その際に、ラスベガスで開催したプロボクシングの世界戦を有料のテレビ放送を見て「世界のエンターテインメントがこんなに間近にある。」と強烈な印象を受け、日本でも有料のテレビ放送が必ず普及するだろうと考えるようになった。

 穰の予想通り、1980年代に「ニューメディア」ブームが到来。多くの商社が「ニューメディア」事業に参入し、1990年代にはケーブルテレビ局が全国各地に誕生した。

 自社の新規事業を模索する中で、総合商社の方の助言もあり、ケーブルテレビ業界に向けた販促支援事業がスタート。折込チラシ等の広告案件を中心に徐々に全国のケーブルテレビ局とネットワークが広がる。複数のケーブルテレビ局と取引する中で、番組情報をまとめて閲覧できる番組ガイド誌の需要があることがわかり、番組ガイド事業への参入を決めた。1996年に「チャンネルガイド」が創刊。以降クオリティが高いプロダクトと積極的な営業活動を元に全国のケーブルテレビ局へ展開された。


3代目 大津裕司

ステージ広がる業界・取引先

 2014年にはハル・プロデュースセンターの株式を取得し、子会社化。現在も続くホームセンターマガジン「Pacoma」など、新しいメディアが加わり、園芸業界・製薬業界をはじめ、取引先を拡大していった。

 「Pacoma」創刊からホームセンター商品ならではの面白さ、知恵を注ぎ、手を動かして暮らすことの豊かさを表現する。翌年の2016年には「WEB Pacoma」もサービスを開始した。

JASDAQ市場へ上場

 得意先に今後も最高のサービスを提供するため、それによって今後も会社が成長していくための手段として、上場を目指す。1990年代末から2000年代初頭にかけて、急成長するICT市場にて、ベンチャーブームが起こっていたこともあり、日宣にも上場のチャンスが必ず来る、と見込んでいた。何度か、上場のチャンスがあったものの、リーマンショックや東日本大震災などで、波に乗り切れない時期が続いた。それでも諦めず、売上を着実に伸ばし、不安定だった大阪支社の体制も立て直し、ついに、2017年2月、JASDAQ市場(現:東京証券取引所スタンダード市場)に上場する。先代からの“浮利を追わず、地に足の着いた経営をする”という信念のもと、経営方針や会社のしくみを変更し、得意先への提供価値をぶらさなかったことによって、上場という目標にたどり着いた。

「360°マーケティングパートナー」のはじまり

 マーケティング・コミュニケーション領域を強化していく中で、多くのコンペに参加し、事業拡大に向け試行錯誤していた。コンペの結果、取引が始まったある企業のマーケティングリーダーから「一緒に汗をかけるイメージがどこよりも鮮明に持てた」と評価を受けた。改めて、日宣の創業以来の強みである「ユニークなインディペンデントであること」「得意先の経営に貢献できる、高付加価値なサービスを提供すること」の重要さを再確認できた出来事であった。この日宣の強みを活かしたサービスが、現在日宣が拡大しようとしている「360°マーケティングパートナー」のはじまりである。

新たなステージへ「コミュニティ・エコシステム・カンパニー」

 現在、広告業界のみならず社会全体で“デジタル化”というメガトレンドの潮流を受けている。その中でも、得意先や社会に対して確かな価値を届け続けるための「独自の視座」と「逆張りの視点」を持つ広告会社でありたいと考え、2021年3月に「2030ビジョン」を設定した。

 広告会社のDNAをもとに、生活者を「コミュニティ」=人と人の“小さなつながり”として捉え、その発想を起点に、企業・地域・さまざまなプレイヤーをむすびつけ、新しい連携や共創=エコシステムをつくりだす。日宣は、広告の枠に留まらない世の中の“グッド”に貢献していく会社を目指し、今後も挑戦を続けていく。


今回のブログ内容は、社内で作成された記念誌『THE ROOTS 1947-2022』を基にご紹介しました!
この記念誌は、75周年をきっかけに社内メンバーで制作したもので、「社内報アワード2023」の[特別部門]において、最高評価の「ゴールド賞」、また14企画の中で「グランプリ」を受賞しました。
記念誌タイトルの通り、日宣のルーツが詰まったものとなっております。


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