1
/
5

ボクがやっている社会貢献について(8)初めてのボランティア活動:社会貢献事業や社会起業を目指す方へ

やっとここまで来た感じw

「社会貢献事業」というテーマで書いてきて、今回のその8回目です。
東日本大震災の被災地支援「鯉のぼりプロジェクト」が生まれるまでのストーリーで

「心理カウンセラー10名と柔道整復師1名」の11名で
2011年のGW(震災の2か月後)に現地で活動する・・・というところまでが前回でした。

ボクがやっている社会貢献について(5)いざ被災地へ

ボクがやっている社会貢献について(6)救い

ボクがやっている社会貢献について(7)10年続く活動へ

今回は10年続いている「鯉のぼりプロジェクト」から離れて
最初の被災地支援「ボランティアツアー」で行った
現地でのボランティア活動と

その3週間後に「鯉のぼりの撤去」のため
再び被災地を訪れた話もしていければ・・・と思います。
(当時のブログでは書けなかったことも含めて)

初めての経験

GWに心理カウンセラーの学校に行っていた仲間と
ボランティアツアーを決行した。

初日は移動だけ。
2日目である「2011年4月29日」に南三陸町に「鯉のぼり」を揚げに行った。


ボクらのその目の前に広がる風景

その衝撃の感傷に浸る暇なんて
ボクらにはない!

「4か所の鯉のぼり設置」を【たった1日で】終らさせられなきゃいけない
正直言って「全く余裕なんて無かった」

そもそもこんな大量の鯉のぼりなんて
揚げたことなんてねーし。

しかも校舎のベランダだの、電線だの
今ある設備になんとかして設置しなくちゃいけない。

ボクは内装工事屋でも土建屋でもない。

元システムエンジニアだっつーのw




でもまぁ何とかやり切りました。
適応力だけは自信があります

そして2日目
また新たな活動が始まります。
それは当時のブログから・・・

被災地ボランティア(その5:3日目 ボランティア・避難所での傾聴)

被災地ボランティア(その6:4日目 ボランティア・避難所での傾聴)

被災地ボランティア(その7:最終日とまとめ)


沿岸地区での支援ではなく、
仙台市内でのボランティア活動です。

ボクがやっている社会貢献について(6)救い

↑この記事で書いた「仙台市宮城野区」で
最大の避難所であり、ボランティアセンターも併設されていた
「仙台市宮城野体育館」へ。

事前の視察のかいもあって、
めちゃくちゃスムーズ

ちなみに言っておくと。
こういうボランティアの際には、もしその作業中にケガなどをしても
きちんと補償が出来るように「ボランティア保険」というものがあるのですが。

そのあたりも事前に調べ上げて、
今回参加者全員分の保険はウチの団体で「団体扱い」で加入してありました。

これでケガしても大丈夫(違

それで受付が簡素化されたのもありますが、
「自分たちの車で作業員を搬送できる」ということも現地ではかなりメリット。


このあたりは事前調査がかなり効きました。

何事も準備と段取りが大事だよねw

(仕事も一緒だよ)

ボランティアセンターで各地からの要請を取りまとめて
それを参加者に割り振っていくんだけど

ボクらがボランティアで行ったのは宮城野区の沿岸側
個人宅での「泥かき」の作業でした。

さぁ初めてのボランティア活動だ。

仙台市内の沿岸地区はあるところを境に
全く風景が違っていた。

それは仙台市の東側で南北の交通網となる
「仙台東部道路」

津波がここでせき止められたらしく
この高速の東側と西側では状況が真反対

ボクらが行ったのは、高速の東側
一部については、警察が道路を封鎖していて
(防犯上の理由から)

石巻や南三陸町という地域とは
全く違っていた


↑これは海側を背にして、ボランティアをした個人宅から見た風景です

基礎工事の跡があるのがわかる通り、ここから視界の届くところは
ずーっと住宅や建物があったところです。

周りの家は全て無くなっている
(都市部なので既に瓦礫が撤去されていたのでしょう)

それなのに、この個人宅は家屋の1階部分ほとんどに
泥がかぶっているものの建物としては無事でした。

不思議に思って話を聞いて
それで納得しました。

ちょっと分かりにくいので図を作ってみました。



この家の真裏(裏側)には、鉄筋コンクリートで作られた大きな工場がありました。
そのため、この個人宅へは「津波が直接かからず」に家屋が残った。

ただ、津波は工場で一旦せき止められたものの、
波が割れた先で合流、この家屋の先の住居を飲み込んでいったと。

本当に「心から恐ろしい」と思いました。

その後、ボクは高層マンションに住みたいとは思いませんでしたし。
(もともと高所恐怖症だったけど)

少しでも高台に住みたいと思いました。(完全に余談)



ぶっちゃけ「かなりの重労働」です。
何より泥ってのが半端なく重い

初めてのボランティア現場では
さまざま考えさせられる場面がいっぱいありました。

「デリカシーなんて衝撃的な現実の前では何もならない」とか。
「当たり前がそこにあることはどれほどの苦労の積み重ねなのか」とか。

この家はポツンとあるだけで
実は電線も全て流されてしまったので、電気も通っていない。

ボクらは泥かきをしましたし。
元通りとまでは行かないまでも、少しは綺麗にした。

でも住めない。

本当に色々考えさせられました。
被災者の方々がいるのにこんなことは不謹慎だとは思いますが、
確実に自分の人生観には影響をしています。


「少しでも助けになれば」
そんな気持ちで行きました。

でも、もしかしたら

得難い大きな価値をいただいたのはボクらの方だったかもしれない。

そんな気がしてならないです。

この他、当初の目的の1つでもあった
避難所での「傾聴活動」なども行いました。

「人に話すことで心が軽くなる」
ボクらが何か解決できるわけでもないけど
出来ることは精いっぱいやってきました。

嫌なことを言いますが
ボクは少なくとも「自分の行動は単なるエゴ」だと自覚しています。

でもそれは「やってすごいだろ」と自己顕示欲を満たすため
という訳ではなく

「やりたいからやっている」ということです。
誰かに褒められたいわけでもないし。
誰かのリスペクトが欲しい訳でもない。

もし1つボクが目指していることがあるとすれば

「無理しなくても社会貢献出来たらいいね」

ってこと。

「生活をないがしろにしても」とか。
「全てを投げうってでも」とかそういうんじゃなく。

気軽に。
何の気なしに。
誰かのために動ける状況を作れたらいいねと。

だから、一般社団法人Zipsの理念は

「無理せず出来る社会貢献」

なんですねー。

このコンセプトをわかった気になっていても
本当の意味を理解できる人はなかなかいませんけどね。
(愚痴ですw)

こうして2011年春に行われた「GWボランティアツアー」は
無事開催できましたとさ。
(細かい部分はブログを参照)

被災地ボランティア(その2:2日目 鯉のぼり1)
被災地ボランティア(その3:2日目 鯉のぼり2)
被災地ボランティア(その4:2日目 鯉のぼり3・4)
被災地ボランティア(その5:3日目 ボランティア・避難所での傾聴)
被災地ボランティア(その6:4日目 ボランティア・避難所での傾聴)
被災地ボランティア(その7:最終日とまとめ)


そして、後日談

南三陸町で揚げた「鯉のぼり」ですが

やはり自分たちで設置したものは
自分たちで撤去しなくちゃいけない

ということでw

GWの3週間後・・・
5月末に再度現地を訪問する機会を得ることになりました。

この旅も当時のブログで

【被災地ボランティア】鯉のぼり撤去に行ってきました。

撤去は設置に比べれば
大したことないので

最小人数の3名で伺いました。

宿泊施設も「避難所」となっていた
民宿?ホテル?をご用意いただけるということで、
軽い旅気分と言ったらいいのかな?

それがあんな結末が待っていたとは。




撤去はかなりスムーズでした。
人数も少なかったので、「2日間で4か所」という比較的余裕のあるスケジュールにしましたし。


現地の避難所の方とも交流出来ました。
(完全に昼間から酒入ってますwボクは運転手なので飲めませんでしたが)

ほとんどは地元の漁師をやっていた方々

実は設置の際には、とても協力的で
しかも「めちゃくちゃ戦力になる」という。

何かと言えば、漁師さんなので

ロープワークがめちゃ凄い

ささっと縛るんだけど
それが素人のボクらからすれば、全くわからないw

ああ。これが長年の経験。プロなんだなぁと思って。
質問をしてみました。(これはブログには書いてない)

「落ち着いたら漁師やらないんですか?」と。

今考えたら酷な質問ですよね。
でも、そのおじさんは酒焼けした赤ら顔でボクに言いました。

「今度の津波で大勢の人が沖合に流された」
「たぶん生きてはいないだろう」
「その遺体は魚のエサになっている」

「そんな魚をお前は食いたいか?」

残酷かもしれないけど
ボクは食べるかもしれない。

でも、家族や周りの人に「気にしないで食おうよ」と言えるか?と思えば
否定も肯定も出来なかった。

これが現実。

わかっちゃいるけど。
現実はいつも残酷で、そんな現実を前に人間はいつも滑稽だ。


避難をされている皆さんのお邪魔にならないように
荷物置き場となっている宴会場に「寝袋」でお泊りして。


一宿一飯の恩義とばかり
少しだけ宿泊施設でボランティアさせてもらって



2日目も撤去作業を終えました。
その作業自体は全く問題はありませんでした。

この項の冒頭で書いた「あんな結末」というのは
この撤去作業とは関係なく

否応なしに「現実を突きつけられた」という出来事がありました。

きっかけは、ボクのミスでした。

当時、南三陸町ではガソリンスタンドが2つしか営業しておらず
その2つともに取り扱っているのはレギュラーだけでした。


ガソリンスタンドの貯蔵施設のうち、
地下に埋まっているタンクは津波で使えなくなってしまいました。

そのため、物理的に1つのタンクしかないので
供給できるのは全て「レギュラーガソリン」

しかし、ボクの車は「ハイオク」なので、
南三陸町では給油できません。

現地に行く前、例えば高速上でも、仙台市内でも
給油することは可能でした。

それは事前にわかっていたことなのですが、
GWの時と違い、緊張感が薄れてしまったいたのか、

すっかり忘れていました(汗

宿泊施設の方に聞いたところ
「気仙沼の本吉に行けば、ハイオクを給油できる」

本当にボクのミスなんですが、
ガソリンも残りわずか。

ということで、当初は予定になかった
「気仙沼」に向かうことになりました。

読んでらっしゃる方はご存じかどうかわかりませんが
気仙沼は津波の被害がかなり大きかった地域です。

それは気仙沼に向かう途中の沿岸の道路を見れば
一目瞭然でした。

南三陸町から気仙沼に向かう海岸の道路「45号線」は
手前から完全に崩落しており
山側の道路に迂回せざるを得ない状態

車で走るその道路から見る風景は今でも忘れられません。

海までは数キロ先なのに
その間の建物や住居が一部瓦礫が残っているものの
視界を塞ぐものがなく

山側からその数キロ先の海が見えるんです。

おそらくは何千人という人が生活していた場所
行き来していた街がすっぽり無くなっている。

言葉がありませんでした。
それが数キロ北上したところで風景が変わらない

何にもない。
綺麗な海を見ているのに、恐怖心しか浮かばない。

そんな状況ではありましたが、
何とか無事に本吉でガソリンを入れ
南三陸町に戻ろうとしたところ

道路が地図通りになっていない

ボクは方向感覚も良くて
普段は道に迷うことがないんですけど

山間部を走っていると言うこともあり
かなり道に迷ってしまいました。

そのため全く想定外にある集落に
たどり着いてしまったんです


その集落は海岸線から数キロ離れた山の中
数軒あったんだろうなと。

何でそんな表現かと言えば、
住宅の基礎はあるものの、住居が全くない状態だったから

ボクにはわかりませんでした。
何でこんなに海から遠い山の中で

住宅が被害にあっているのか

海からだって数キロ(最低でも2~3キロ以上)は
離れているのに

ふと脇をみると
そこにあったのは「穏やかに流れる川」


こんな小さな川ですけど
恐らくは「津波が逆流してきた」ということなんだと思います。

周りを見ると、かなり高い木(杉?)が
回りを囲っていて、そのずいぶん高いところにも何かが引っかかってる。

え?ここまで津波がかぶったってこと?

だってあそこまで10メートルはあるよ。
ええええ。こんなところまで津波が・・・。

もしボクがこの集落に住んでいて、
あの瞬間に地震が来て「避難指示」が出てところで

高台に避難するっていう判断が出来たかはわからない

そもそも海から数キロ離れた山の中だし。
そんな判断できる?


車はひっくり返り
住居も何もかもなぎ倒すような津波が来るって

自分なら想像できるか?

正直無理だと思う

津波の被害がある地域に行くと
べニア板に「OK」と書いたものを良く目にしました。

これ何なんだろうって
ボクは思ってました。

これ警察なのか、自衛隊なのかはわかりませんが
捜索をした方々が「遺体の確認」を終えたしるしだったみたいです。

そして、竹の棒に「ビニールテープ」が巻かれたものが
そこかしこに置いてあります。

これはご遺体があった場所。

それがこの集落だけでも
おびただしいほど数がありました。

ボクは背筋は寒くなりました。

日常の生活を続けてきた場所
変わらない日々

それを一瞬で変えてしまったあの震災。

ここには日常がありました。
津波を呼び込んでしまった川のほとりに

今日はここまでとします。

東日本大震災が起きた2011年のことを
ここまで書いてきました。

当時のブログでは書けなかったことも。

本当は今回でこのシリーズを終わろうとしていたのですが、
収まり切れませんでしたw

ということで

それでは次回は
南三陸の2年目以降の支援活動

そして今の「みなと保育園」さんへの支援に
どう繋がっていったのかを書いていこうと思います。

たぶん。次回には終われような気がするw
ではまた。

ボクが代表をしている一般社団法人について

2009年に先輩経営者からの話をきっかけに「社会貢献事業」を始めるにあたり、
活動をする上では、別法人にした方が良いだろうということで、2011年1月に設立された今年で活動が11年目一般社団法人です。

主に「児童養護施設」の支援と、設立した年に発生してしまった「東日本大震災」の支援事業を行っています。

主に開催しているのは2つ
①児童養護施設向け支援事業「こころのあかり絵画コンクール」

今年で第10回目となりました。
全国の児童養護施設向けに「絵画コンクール」を開催しております。
優秀作品にはご本人が書いた絵をグラフィックアートにして、素敵な額縁に入れてプレゼントしています。

詳細についてはこちら↓
http://www.z-ips.jp/contribution/concours/

活動報告についてはこちら↓
http://www.z-ips.jp/activity/activity-category/orphanage/

②東日本大震災支援事業「鯉のぼりプロジェクト」

2011年の震災当時より、代表自らが被災地に赴き、支援を続けております。
現在は、福島県相馬市の「みなと保育園」さんにて、子ども達の成長を願い、毎年「鯉のぼり」を揚げるイベントを行っており、東京からお連れしたパフォーマーによるショーを行い、子ども達に喜んでもらっています。
この様子は毎年地元のメディアでも取り上げていただいております。

毎年のクリスマスには、ささやかですが、プレゼントも・・・。
そんなイベントも今年で丸10年を迎えます。

詳細についてはこちら↓
http://www.z-ips.jp/contribution/caresupport/

活動報告についてはこちら↓
http://www.z-ips.jp/activity/activity-category/tohoku-earthquake/

学生インターンの募集内容について

■インターンとしてご担当いただく内容

上記の社団法人と連携しつつ、弊社の社会貢献事業として、その広報・PRとして、広報活動やSNS運用が主なお仕事つぃて担当していただきます。
また、4月に開催予定のクラウドファインディングでは企画から運用までを担当していただきます。

活動については、弊社の学生インターンチームの一員で、グループで実施していただきます。

・社会貢献に興味のある方
・将来、子どもにかかわるお仕事を目指されている方
・クラウドファンディングに興味のある方
・社会起業に興味のある方
・ビジネスと社会貢献の関わりを実体験したい方

他では絶対に体験できない「即戦力のビジネス力」が身に付きます。
「えー?そんなの信じらんなーい」って方は、
ぜひ弊社のインターンミーティングに見学に来てください。

普通の学生だったインターン生たちがどう育っているかがわかると思いますよ。
ぜひぜひお待ちしております。

ぜひ気軽にミートアップや募集へのエントリーを!

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

ミートアップは近日オープン!
興味のある方はぜひぜひ。

Invitation from R3corporation株式会社
If this story triggered your interest, have a chat with the team?
R3corporation株式会社's job postings

Weekly ranking

Show other rankings
Like 二三生 平松's Story
Let 二三生 平松's company know you're interested in their content