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《心をシフトする物語》転職場エージェント

窓から太い陽光が射し込む。部屋にある、日常のささいな物たちに朝の洗浄を施すみたいに。
一日が始まる。僕は朝食をとり、いつものように出勤の準備をした。

会社では、同僚と挨拶を交わして仕事を始め、ルーチンをひと通りこなすと昼休みになる。
午後には会議も多く、議論はけっこう白熱する。創業の古い保守的な会社だが、皆の勤勉さが清々しい。

やりがいも肩すかしも存在する、会社という共同体での生活。
この着実と累積の濁流の中に、一つだけ前と違うことがある。

それは、会社の中で僕だけが、全く違う場所から仕事している ことだ。

きっかけは三週間前だった。話せば長くなるけれど、この体験をシェアしたいと思う。

そんなに似ているか?

木曜の午後、商談が長引き、遅いランチをとった後のこと。
お茶を買っていつもの休憩場所に行った。高層ビルに囲まれた中庭で、前に映像で見たアッパーウエストサイドの街角に似ているお気に入りの場所だ。青々と茂った樹々がモザイク模様の木漏れ日を地面に落とし、晴れた日には葉擦れの音が耳に心地良い。

ベンチで読書していると、ふいに男が声をかけてきた。

「もし、あなた。いい背中をしていますね」

どこか英国紳士を思わせる、洗練された雰囲気の男。質の良いコットンシャツのボタンを上までとめ、薄グリーンのベストを着ている。身体の線はすらりと細く、背丈は百七十センチ位か。頭には白いものが半分混ざり、眉もグレーでふさふさしている。血色の良い頬、口角の柔らかく上がった口元、整ったあご髭。落ち着いた物腰から、年齢は六十を超えて見える。

急なことにうまく反応できずにいると、
「いや、びっくりさせましたら失礼。今日は実に良い天気でしょう。ひとつ甲羅干しがてら散歩していましたら、あなたのうしろ姿が目に入りまして。なんというか、アイリッシュウルフハウンドを思わせますなあ。あなたの背中と、その巻き毛」

男はふんふんと満足そうに頷いている。僕はちょっとどうすればいいか分からない。もともとアドリブに強い方ではない。

「実に穏やかな目をした大柄の犬です。しかし飼い主に危険が迫るようなとき、果敢に立ち向かうことをいとわない。美しく高尚な犬ですよ。それを彷彿とさせます」

男はこめかみに茶巾しぼりのような笑い皺を何本も寄せて笑っている。一瞬ふと大きく目を見開き、好奇心に湧きたつ子供のように瞳をキラキラ光らせた時は僕もハッとした。

僕も犬は好きで、その大型犬のことも知っていた。自分は百八十三センチの大柄だし、どこか朴訥とした不器用な容姿をしているから、威圧感を与えないように、無意識に大人しさを醸し出しているようなところもある。また生来のくせっ毛は色の抜けた茶色で、天候に関わらず緩やかなウェーブを描いてしまう。あの犬に似てると言われても、あながち分からなくもない。
でも正直、早くどこかへ行ってほしかった。初対面の男性に、それも全くの赤の他人に、外見の感想を述べられることはまずない。それも、似ている犬の例まで持ち出して。

「はあ、どうも... 」話半分にあしらい読書の世界に戻ろうとすると、思いがけず質問された。


「ところであなた、今どちらにいらっしゃるんです。はい、会社のことです」会社名を答えると、

「はい、はい。あそこですね。そうですか。うーん…」男は右手で柔らかそうなあご髭を押さえて、うーんと唸っている。しばらくすると人差し指を立て、空中のドアベルを押すように言った。

「それでしたら私はもしかすると、あなたにとって、とても耳寄りな情報を持っているかも知れません」

話を聞くと、二つ隣りの駅でエージェントをしていて、今日はこの付近の会社に用があって赴いたと言う。


「名刺をお渡しいたしましょう。はい、データ名刺です。iPhoneですね、AirDropにお送りします。
申し遅れました。わたくし ”Rereality Agency” の桂木です。あなたの、お名前は?」

「豊中です」僕は言い、送られてきた名刺を見た。薄グリーンの背景にマスカットのロゴマークとエージェンシー名、『桂木 真(かつらぎ しん)』という名前、住所と、通話ツールIDが載っている。
リリアリティ? はじめて聞く言葉だ。意味を尋ねると、

「はい、はい。まあ、読んでいただいて字の如くなのですが。そうですね、ご覧になるのがてっとり早いでしょう。どうです、こんど事務所に遊びにいらっしゃいませんか」


こうして、実にひょんな出会いから、僕は翌日の仕事帰りに彼の事務所を訪ねることになった。

不思議だけれどスムーズに、まるで何かに導かれるように。

桂木という男には、人の警戒心をするりと解いてしまうような、気品と、独特の抜け感があるのかも知れない。

でも、訪問を決めたのは何より僕の中で、よく分からないけれど何か良いことが起こりそうな、ワクワクする感覚が芽生えたからだった。


「それではまた明日。ごきげんよう」桂木は優しくほほえんで立ち去り、僕は三時のミーティングのため、会社に戻った。


無敵のシールド

その日の会議もいつもと似ていた。いつもの会議室でいつものメンバーが議論を重ねる。大抵同じようなボトルネックに、使い古した改善方法。参加者の倦怠感を映すレントゲンみたいなプロジェクターがジリジリと空中の埃を焦がしていた。スライドのカレンダー日程だけが、障害物をすり潰しながら厳かに前進する氷河のように、淡々とコマを進めていた。

僕は昔から、何ごとも真面目にこなしてきたと思う。中学から大学までは、バスケットボールにとことん打ち込んだ。足の腱をやってプロの夢を断念してからは、就活にも真剣に取り組み、今の会社に無事内定した時は家族と泣いて喜んだ。

内定をもらって一番に得たのは、言いようのない深い安堵感だった。性格はマイペースな方だし、都心の実家にいながら自由な生活をさせてもらっていたから、僕にとって周りの評価や報酬はたいして重要ではなかった。ただ、社会の通行証としての「経歴」に加えられた老舗一流企業の名は、まるで無敵のシールドのように燦然と輝いて見え、やがて一つの自信に替わった。人生の突堤がきれいに竣工し、大艦隊と共に胸を張って大海へ漕ぎ出すかのように。

新卒で入社してから六年、やるからには結果を出すべく熱心に働いた。そこそこ、上から認められるようにもなった。

この会社の創業は五十五年前。歴史は古く、社風は強固な文化となり最早ひとつの国と言ってもいい。冷やりと整頓された法律、隅々まで行き届いたシステム。多くの部署が機能的に配置され、オフィスはさながら街のようだ。画一的な身なりの社員は皆、顔つきまで似てきている。誰もが半年も勤めれば立派に民としてのアイデンティティを確立し、はみ出る個性は少なからず淘汰された。時間が簡潔な態度で規則正しく回り、それに逆らわないのがこの国での暗黙の了解だった。

気づけば一年なんてあっという間に過ぎ去る、統率された時の歩幅。誰も、何も疑わない場所。

始まりは確かにその日に違いなかったけれど、何かを変えようとする自分はきっと、ずっと前から僕の中にいたんだ。


視点の異なる世界

十八時。私は仕事を切りあげて、昨日出会った桂木さんの事務所に向かった。

教えてもらった駅を出ると、内堀をまたぐ大きな橋がホームを見下ろすように架かっていた。夕暮れが水面を淡く染め始める。私はもらった住所をスマホのMapに入れて、爽やかな秋の街を進んだ。少し風が強くて、ほどけそうなスカーフを結び直す。細道に入ると人通りも少ない。しばらく歩くと、白い建物が見えてきた。


分厚いわりに意外と軽い扉をくぐり、きしむ階段を三階まで上がる。
事務所のドアには REREALITY AGENCY と円形の文字で囲んだ真ん中に、マスカットのロゴがあった。ノックしようとすると、急に大音量で声がして飛び上がりそうになった。

「ようこそおいで下さいました。さあ、中へどうぞ」どこにスピーカーがあるんだろう。まるで耳元で怒鳴られるインパクトで、どぎまぎしながらドアを開けた。

中は二十畳ほどの広さで、桂木さんはにこにこしながら窓辺に立っていた。コットンのシャツにレモンイエローのベスト、ツイードのズボンに茶色の靴という身なりで、パイプをくわえたら似合いそう。

「ようこそ、こんばんは。電車は混んでいませんでしたかな」
「こんばんは。はい、早く出られたので大丈夫でした。ありがとうございます」
「それはよかったです。どうぞくつろいで下さいね。ご自分の家だと思って」

私は勧められたソファに座り、部屋を見回す。アンティーク調の書斎机と椅子、モダンな丸い応接テーブルと長めのソファー。ちぐはぐな時代感が逆に有機的な感覚の、ミッドセンチュリー風のインテリアだ。
壁紙は薄グリーンで、丸や四角の絵(たまに動いてる?)がランダムにかかっていた。書斎机の端には今にも飛び立ちそうに翼を広げた白い梟のモチーフが、黄色い瞳を鋭く光らせている。テーブルには木の器に大ぶりのマスカットが盛られていた。

「マスカットもお好きでしたらどうぞ」
桂木さんは書斎机に軽く腰掛けて言った。「今日は私たちの仲間も一人、祐子さんにお会いしたいと言って来ています。まだ子供ですが、アプリを作るのが好きな子で、よく遊びに来るのですよ」すると奥のドアが開いて、中から男の子が出て来た。お茶の載ったお盆をそろそろと運ぶ、不思議な少年。すごくきれいな金髪に、青い目。どう見ても外国人っぽい。でも日本語を話した。ハーフ?

「こんにちは。ぼくはウフクです。よろしくね」少年はにっこりほほえむと、テーブルにお茶を並べて、私の隣りに座った。

「初めまして、祐子です。よろしく。お茶をありがとう。君はアプリを作ってるの?すごいねぇ。すごい時代だねぇ」

ウフク君は嬉しそうにはにかみながら、足をぶらぶらさせていた。


桂木さんが話し始めた。「昨日お会いした時、最近仕事のことでモヤモヤしているとおっしゃっていましたね。何か、固い殻を取りたがっておられるご様子でした」

「そうなんです。初めてお会いした方に、あまりこういう話はしないんですけど。桂木さん相手だと、なんだか話しやすくって」

私はちょっと照れくさかった。桂木さんとは昨日の昼休憩の時、たまたま同じベンチに座って、あんまりいい天気だったので世間話がはずんだ。お天気とか、犬とか、美味しいごま豆腐とかの話をするうちに、ふと、最近行き詰まっていた思いを、ほろっとこぼしてしまったのだ。でも口に出してみたら、肩の力が抜けた。桂木さんはエージェントさんで、労働環境の提案もしていると言うし、話を聞くと何だか面白そうだったから、今日はここに遊びにきてみた。普通ならあやしい勧誘っぽくて遠慮するところだろうけど、何故かどうしてもそんな風に思えなかったから。不思議だけれど。

「はい、はい。大丈夫ですよ。誰にでもそういうことはあります。人が窮屈さを感じるときは、実は自分で作ってしまった "重り" を外せずにいることが多いのですよ」

「重り... 。でもまさに、そんな感じです」

「はい、はい。まあ、お茶でもお飲みになって。美味しいですよ」
「どうもありがとう。ほんとう、おいしいお茶ですね。ハーブティ?」
「トゥルシーですな。ホーリーバジルのことです」
「ふぅん。あったまる」少しずつ飲みこんで、深呼吸をした。隣りでウフク君もお茶をすすっていた。

桂木さんが話し出した。「 ところで祐子さんは、"パラレルリアリティ" という言葉をお聞きになったことはありますかな?」

「ええと...?パラレルワールドなら聞いたことあります。でもそれがどうしたんですか?」ちょっと意外なワードだった。

桂木さんはふんふん頷いて、「はい、はい。パラレルワールドや、平行世界とも言いますな」

「前にそういう映画を観ました。『ミスター·ノーバディ』かな。よく覚えてないのですけど、確か主人公が人生の分かれ道で何か選択する場面を回想して、例えば結婚相手とかを。で、色んな結果を見るみたいな話だった気がします。この人と結婚したらこうなる、違う相手ならこう、みたいなパターンがあって」

桂木さんは「ご名答!」と言わんばかりに、「はい、はい! 選択肢で分かれる世界ですね。いいでしょう。さらに言いますと、何も特別な選択をしなくてもパラレルリアリティは存在します。それも無限に。今ここに、無限の "別の" 現実があって、私たちは一秒の中で数十億回は、違う世界を旅しています。このことにはお気づきですかな?」

「ええと、別の現実、ですか?」少し面食らいながら、なんとか話について行こうとする。

「アニメーションのようなものです。少しずつ絵の違う静止画を並べて、あたかも動き時間在るように体験しています。しかし実際には、静止画の世界が無数にあるだけです。そこに『連続していなければいけない』という決まりもないのです。意識次第で、どの世界にも行けます。つまり、常に変化のチャンスがあります」

「うーん、ちょっと、難しいかもです」ちょっと、難しい。

「では、違う視点から見てみましょう。祐子さんはご自分の人生で、何か変えたいことはおありですかな?何でもいいですから、どうぞ考えてみて下さい」桂木さんはキラキラの目で優しく頷いた。

「変えたいこと。そうだなあ・・」思い返してみた。生活や仕事や、人付き合いのことを。

目を閉じて心の中を見つめていくと、私はわりと、自分の持ちものに満足していることに気がついた。
仕事だって、一流の会社でやりがいはあるし、理念にも共感してる。プライベートだと、大切な親友もいて、家族ともざっくばらんに仲が良くて。彼氏とは気が合うししっくりきてる。私には、大きな野望とかはないけれど、将来はどこかきれいな南の島で、犬と一緒に暮らしたい。その時は自分にも家庭があったら嬉しい。そんな夢も、きっとゆっくり叶っていく気がする。

なんだかあたたかい感謝の気持ちがこみ上げてきて、そっと目を開けるとぎょっとした。
辺り一面、丸ごと海辺に変わっていたのだ。部屋にいたはずなのに、いつの間にか外の世界にいた。ターコイズの海がさざ波を寄せて凪いでいる。高く澄み渡った空には大きなトンビが楽しげに舞い、空と海の接着剤のような水平線がずーっと遠くに途方もなく続いていた。熱い風が白い砂を舞い上げる。潮の匂い。優しい夏が永遠に続きそうな場所。

本当にびっくりして全身鳥肌が立った。それはまさに、今さっき思い描いたばかりの、将来暮らしていたい、南の島そのものなのだ。いつも心のどこかにあった憧れの世界が、ありありと目の前に在って、今、自分がそこに居るなんて。


思わず口を開けたまま桂木さんを見上げた。「ここはどこ??だって部屋にいたのに。ちょうど今、海のことを考えていたんです。ちょうどこんな色で・・なにこれ・・???」

「はい、はい。なんとも美しい所ですねぇ。あなたらしくいる心が創る世界です」

「ワープ、したんですか...? ARとか、MRとは違いますよね...?」私は足元の砂の感触を確かめながら聞いた。

「というより、ジャンプしたのですな」にこにこと、愉しそうに話す。

「私どもはエージェントとして、実に様々なサービスをもっているのですが、それらは全て、多くの人がまだ "揺るがない固定した現実" と定義してしまっている、この世界の無限性を認識するためのものです。

今この瞬間に詰まった可能性を、多様性にあふれる本当の自分を、思い出していただきたいのです。

仕事においても、同じことです。現実は意識の鏡ですから、実は自分の定義づけ次第で柔らかく変わります。
社会というものは以前、制限や分離をベースに形造られました。やがて統合に向かい、
自分たちで課していた”重り”も、もはや不要になってきています。
慣れ親しんだ重りを外すのに、何かきっかけがあれば助かるという人たちもあります。

例えば私たちの創るアプリには、パラレル変数の技術を応用しています。こちらでご覧いただけますよ。
さあどうぞ」桂木さんはにっこり笑うと、メニューを表示したタブレットを渡してくれた。
すると、今度は周りが一気に宇宙空間へと変わった。

いきなりのすごい浮遊感に身体がすくんだ。吸い込まれそうな漆黒の闇に、またたく無数の星達。自分がすごくすごく小さくなったみたいだ。息はできた。広大な宇宙に私たち三人、寄り添うみたいに浮かんでいる。遠くで惑星の群れが螺旋をえがいて移動している。あの真ん中の星は太陽かもしれない。そうだ、宇宙には音が鳴っていたんだ、と何故か思う。懐かしいような、とても平和な気持ちになる。

「面白いものでしょう」桂木さんは眉を上げてお茶目な顔で言う。

「いずれアプリを介する必要はなくなります。それまでの間、遊ぶということです」 彼が感慨深くふんふん頷くと、フッと景色が元の事務所に戻った。

まるで身体を置いて来たような感覚が、徐々に部屋の灯りに馴染んでくる。突然のことにぼうっとしてしまう。

「ぼくがつくったアプリも見る?」ウフク君がふいに言ったので、私は我にかえって答えた。
「うん。ぜひ見てみたいな」
「ウフフ、これだよ」嬉しそうにアプリを表示させてくれた。

Rereality
▶︎ Other Services
  - School Transfer
  - 好々爺紹介
  - Blooming Olieve in Morocco
  - Erasing the Border

想像より数があった。「へえ、色々あるんだね。これは全部ゲームなの?」
「ゲームもあるけど、違うのもあるし、ゲームも現実とつながってたりするよ」
「つながってるって、どういうことだろう?」
「実際に転校できるし、おじいさんと友達にもなれる。好々爺って言葉は桂木に教えてもらったんだ。ウフフ」少年はこの言葉が気に入っているらしい。
「ゲームで育てたオリーブはモロッコから送ってくれるよ。国境消しゴムのゲームは、地球がおっきな国で、国は地域になるんだ。これは現実にはもう少しかかりそう、始まってはいるけど。ね、楽しくて、ワクワクするでしょ?」
「あはは、本当だね!地球がひとつの国になったら、きっといっぱい行き来できて楽しいだろうなぁ」

桂木さんもにこにこ見守っている。私はなんだか力が抜けて、マスカットをひとついただいた。


マスカットの意味

僕は帰宅して軽い食事をすませ、ゆっくり湯船に浸かった。
身体から今日という日がほどけていく。風呂を上がって水を飲み、ひと息ついてから、桂木が貸してくれたタブレットを取り出した。

そう。僕は翌日、会社から二つ目の駅にある桂木の事務所を訪ねて、彼の仕事の話を聞いてきたのだ。

そこでは不思議なことが次々と起こった。彼の話は、経験や常識といった親しんだ材料を一切使えない、どこか違う星のゲームのルールを聞かされるようだった。少しうさん臭くもあった。僕は比較的柔軟に考える方だけれど、頭の中では開いた口が塞がらなかったし、話を聞く内にすべて幻のような気がしてきて、思考がつかまる手すりが欲しかった。まるで家の中に百五十センチ位の子供の竜巻が急にきて暴れ回り、家具から何から全部ひっくり返して行ったぐちゃぐちゃの部屋にひとり立ち尽くすみたいに、あるいは、千ピースのジグソーパズルが完成間近にバラバラに爆発して、修復しようにもピースの模様がチカチカ変わってしまうので一向に進まないといった、途方の暮れ方だった。

僕の困惑を察するように、桂木は話した。
「聞き慣れないことに出会ったら、こう考えるといいでしょう。
見えるものや聞いたことに、どんな意味を与えるかは豊中さんの自由です。意味を与えないのも自由。現実そのものに元からの意味はないのですよ。シンプルです。さあ、マスカットでもどうぞ」

桂木の隣りで、梟の置物の黄色い目がキラリと光る。僕はマスカットをひとつ取って皮を剥きながら、深く考えるのはやめようと思った。きっと、彼のサービスだというアプリを見てみたら、何となく分かるだろう。
葡萄は新鮮でみずみずしく、爽やかに甘かった。桂木が続ける。

「例えばマスカットに与える意味は、人それぞれですね。
果物、美味しいもの、ビタミン豊富なもの、香りを楽しむもの、好きなもの・嫌いなもの、ジュースやワインの材料。しかし誰がどう見なそうと、マスカットはマスカットの形をした何かで、それ以上でも以下でもない。マスカットという名前すら、知らないと呼べない。この黄緑色の丸い物体に、どう意味付けするかは自由ですし、マスカットだと認識しなくてもいいのです。
現実そのものが持つ、元からの決まった意味など ない のですよ」

そしてひと粒、皮ごと口に放りこむと、心から満足そうに呟いた。「うん、うまい」


トライアル

タブレットの返却はいつでも構わないと、帰り際に桂木が言っていた。
僕はベッドに腰掛け、タブレットのスイッチを入れた。

メニューが表示される。

Rereality
▶︎ Resituation
  1. Trade  - 交換
  2. Nomad  - 自由 *trial
  3. Shift  - 移行 *trial
▶︎ Other Services

ここからは長くなるので、かいつまんで話そう。

トライアルにはガイドがいる。
よくできたAIで、ユーザーによってキャラクターは変わるらしい。
人間みたいに会話できるし、冗談も言う。
ガイドは僕をトライアルメニューに導いてくれた。

"リシチュエーション" として三つのメニューがある。
家や会社同士、環境を丸ごと交換できる "トレード"
自由な場所でいつも通りのことができる "ノマド"
移動しないでも別世界を体験できる "シフト"

軸となるのは行動と規範で、コミュニケーションや場所、
セキュリティや法務といった不可欠なことを、アプリがすべて技術で解決するという。
またタブレットはPCのようにも使え、これで仕事をすることも可能だ。

会社同士の交換なんて、そんな大掛かりなことがアプリで本当にできるのか?
頭に?が何個も並んだけれど、ガイドは『うん』と言うし、
ユーザーの声ムービーも紹介されていた。

トライアルで選べるのはノマドかシフトで、ガイドいわく
僕はすでに桂木の事務所でシフトに近いものを体験していたので、ここではノマドを選んだ。


最初に簡単な説明がある。

・トライアルは二十一日間。ガイドはいつでも呼び出せる。
・ノマドは遊牧民の意味で、文字通り好きな場所にいられる。
 会社の仕事なら、自分だけが出社せず、好きな場所からできるということ。
・付随する諸々の問題は、驚くことにアプリが一気に解決してくれる。
 完全に合法で安全な形で実現するという。
・民泊との連携で遠隔地にも滞在しやすい。


通勤時間や場所の制限をとっぱらい好きな所で、というけれど、僕はやはり会社のことが心配だった。
慣れてしまったものの、考えも制度も古く規律第一の働きアリのような集団だし、
世間の波でテレワーク推進キャンペーンをしたところで形ばかり、終わってしばらくすれば、なかったことのように忘れられてしまう。
一人でリモートワークなんて、理解を得られるとは到底思えなかった。
しかしガイドはけろっと『大丈夫だよ』と言うし、実際にけろっと解決してくれた。

監修はすべて白木博士という天才で、桂木の親友とのこと。


僕は『ノマド』のトライアルを利用して、母方の祖母の家に泊まりに行くことにした。
祖母は札幌市で独居している。最寄り駅から車で二十分かかる、都会の田舎だ。

祖母の家には大学時代、しばらく泊めてもらったことがある。
バスケの試合で足の腱を切り、選手生命を絶たれた直後の冬休み。僕は茫然自失に陥っていた。
夢を追い、わき目もふらずに全力で走りながら、気づけば大きく膨らんでいた期待という名の風船が、まだ見ぬ景色まで運ぼうとしてくれていたのに、一瞬の内に潰れて急転直下、地面に叩き落とされたようだった。夢は荷物のように片手で持って運ぶにはいいけれど、自分と同化してしまうのは危険だと思うようになった。祖母は僕の話に熱心に耳を傾け、自分のことのように悔しがってくれた。僕を励まそうと、藻岩山の展望台へ連れて行ってくれたりもした。

冬の藻岩山では特に素晴らしい夜景に出会える。奇跡のように煌めく札幌の街。脇では石狩湾が、陰陽の兄弟みたいに、静かに眠っている。遠い山並みは街を保護するように囲み、それぞれの山にはナイター営業のゲレンデの灯りが流れ、まるで宇宙の光源を街に注ぎ込むために天の川で造った装置みたいだ。家や道路といった人の営みは、網状のマグマの裂け目となって、凍てつく大気を揺らした。じっとしていると頬の感覚がなくなりそうだ。ピンと澄んだ空気に白い息を滲ませて、視界に広がる景色を夢と錯覚しそうになりながら、札幌の街が美しいのは、きっと寒いからだと僕は思った。

祖母は、ゲレンデの天辺で見る夜景が一番だからと、還暦を過ぎても毎年ナイタースキーに出る。僕はその年スキーはできなかったけれど、数日間、祖母と一緒に北の空気を吸い、美味しいものを食べてよく眠る内に、挫折という灰色の巨大な塊が、心から漂白され消えていくようだった。大粒の雪が、大地と約束したようにしんしんと舞い降り、すべてを白く塗り替えてくれた。夜になると、勤勉なロボットみたいな除雪車がどこからともなく現れて、かいがいしく街道をならし、世界の更新を決定づけた。僕は、自分がまだ若いということに薄々気付いていたが、新しい気持ちでもう一度立ち上がり、第二の人生に踏み出せる気がした。


そんな思い出深い祖母の家に来て、そろそろ二週間になる。
タブレットで朝から会社の仕事をして、昼は祖母とゆっくり過ごし、また夕方まで働く。
仕事はわりと忙しいが、会議も商談も全部オンラインで済み、不思議なほど支障がない。
まるで元からこうだったように、僕にとってリモートワークは当たり前になってしまった。
窓外には一足早く日本の冬が来ている。深まる雪景色の中で、部屋の暖かさと、優しい祖母のぬくもりが身に染みる。

灯油ストーブの匂いで、昔の記憶が呼び起こされる時がある。
あの、涙をかみ潰すような日々。でも不思議だ。いくらあの時のことを思い返しても、
何故かすごく良いことだったとしか思えないのだ。
古いものを壊すためだとか、次のステップのために必然的に起きたとか。
とにかくとてもポジティブな出来事だったと感じるし、もっと深いところでは、
意味や理由というより、出来事そのものの重みが薄れていた。

例えば、Youtube動画の関連リストに並んだ、ちっぽけなムービーくらいの軽さ。
大して打撃だったとも思えないし、人生の節目などというシリアスな意味も持たない。
実際には何か他のことが起きたような気さえしてくる。
そう、まるで裏番組を見ていたみたいに。うまく言えないのだが。

そんな交錯した意識を楽しみながらも、僕は今日もオンラインで仕事している。
ふいに、タブレットからガイドの声がした。『桂木からコールだよ!』


あなたの選ぶリアリティ

着信窓に KATSURAGI と出た。「やあ豊中さん、こんにちは」

「どうもこんにちは」

「いかがですかな、ノマドのトライアルは? 何か気づきがありましたかな」

「そうですね。おかげさまで今、北海道にいます。空気は澄んでおいしいし、満員電車に乗らずにすむし。何より自由を感じていますよ。ありがとう」

「そうでしたか、それはなにより。あなた本来の在り方ができていると思われますかな?」

「はい。例えば通勤とか、なくて済むものを何を必死にやってたんだろうと感じますね。常識だと思っていたものも、脱いでしまえば小さくなった古い服のようで。でもこのトライアルが終われば、またあの生活に戻るので、それは怖かったり楽しみだったりします。通勤やオフィスがどんな感じだったか、早くも忘れそうですから」

「はい、はい。今は不要に思うものでも、その時の豊中さんには何か意味があったのでしょう。そして、どんな意味を持たせるかは、いつも自分次第です。どうせなら、何にでもポジティブな意味を持たせるといいでしょう。古いものをすぐに捨てろとは言いません。ただ、常に一本の芯をもち、誠実に、心からの情熱に従って動くなら、何ごとも自然なタイミングというのが分かります。本当にいらなくなったものには、ありがとう・さようなら。そういうことです。それは豊中さんが、「新しい生き方を心地よく思う自分」というリアリティを選択して初めてできることですな」

「今ならあなたの話も分かるような気がします。頭では難しいんですが、心が頷くような。あと不思議なのは、昔の思い出が薄れていっているんですよね。前までは猛威をふるっていた致命的な過去が、今はまるでホットミルクの上澄みみたいに、さっと取ってしまえる "もの" に変わってしまった感覚です」

「はい、はい。いいですね。この前、「時間は存在しない」というお話をしましたね。プロセスは静止画の連なりだと。過去というのも、今この瞬間から新たに創り出しているのですよ。
さてさて、今日は豊中さんにお知らせがありましてな。今度、"ノマド" のメニューで時差が解決できるようになるのです」

「え、時差ですか?」

「はい。例えば豊中さんが一人、会社を離れてヨーロッパに滞在なさるでしょう。当然ながら時差がありますから、こっちの朝が向こうの夜中だ。会議など、調整が必要ですな。けれどもご安心。アプリが場所同士の時間を一致させます。同じ時刻で同時進行するのです」

僕はこれだけ平易な言葉を用いながらここまでちんぷんかんぷんな説明も珍しいと思うが、続きに耳をすませる。

「ご経験がおありですかな。離れた相手との通話では、画や声が届くのにタイムラグが起こりがちです。まるで打ち上げ花火の音が、光より遅れて届くようにね」

「確かに、ありますね。声が遅れて会話がすれ違うから、相手の発言を待ってお互い黙ってしまったりして」

「はい、はい、はい」桂木ははいが多い。「 "ノマド" では、パラレルの技術で時差の溝を消し、一定のあいだ同時進行できるようにする予定です。タイムラグを、敢えて大きく発生させるような状態ですな。こっちの朝が、向こうでも朝であるように。これである種の国境は消すことができます」

「ちょっと多分まだ理解できてないんですが、そんなことが本当にできるんですか?」

『うん!できるよ』ガイドが出てきて楽しげに言った。桂木が続ける。

「ガイドのウフクも言うように、それはできます。あなたが、それができることを知っているあなたで在るリアリティを選ぶなら

「なんだか、キツネにつままれるような話だな。でも、楽しみにしていますよ」


心からのワクワクのもとに

「トライアルメニューは、"ノマド" か "シフト" です」桂木さんは説明した。

「ノマドでは、場所が自由になります。シフトでは、まったく異なる視点のパラレルに旅ができます。祐子さんは、どちらをご希望になりますかな?」

「私、シフトやってみたいです!さっきの海や宇宙みたいな、別世界へ行けるのですよね?面白そう。みんなで一緒に行けるんですか?」

「はい、行けますとも。私たちもお供しましょう。アプリでは先ほどよりもっと面白いことが起こりますよ」桂木さんはそう言って、いたずらっぽくウィンクした。

「ワーイ!シフト!」ウフク君がぴょんぴょん跳ねて喜ぶ。

「どうぞ覚えていてください。パラレルリアリティは無限です。似て見えてもすべて違います。人生という物語には、一つの展開だけではなく、無限の可能性があるのです。

例えば前と違う考え方をするあなたは、既に別のパラレルの住人です。今ここにある無限のパラレルに、想像できるあらゆるバージョンのあなたが、それぞれ異なる視点の現実を生きています。どのリアリティを選択するか。鍵はあなたの意識、どう在るか、どんな体験を選ぶかです。
性格の違うあなた、性別の違うあなた、歌手のあなた、宇宙飛行士のあなた、外国人のあなた。
ここに座っている豊中祐子さんだけではない、無限の可能性をあなたは持っているのです。

私達のメッセージは、自分に制限を課さず、自由な意志で行動し、生きたい世界を生きられるということです。誠実に、心からワクワクしてね。それでは参りましょうか」


                                        to be continued.


※この物語はフィクションです。登場する人物・団体は架空のものです。
リモートワークを当たり前にする会社は実在します。

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