初めまして、TEDDY WORKSの小熊將太(オグマショウタ)と申します。
1990年に東京足立区に3,400gの人間として生まれ、33年後の現在は75,000gまで成長しております。
この33年にあった出来事の中で人生の転機となったインドネシアでの経験を簡単にお話させて頂きます。
高校卒業後、恥ずかしながらフラフラとしていた時期があり、父の仕事の取引先であるインドネシアにある家具工場に住み込みで働くことになりました。
何かを変えたかった私にはありがたく、二つ返事で決めました。
インドネシア、スラバヤ。日本でいうところの大阪といったところでしょうか。大きな町です。
現地に到着し、父親についていき取引先の工場をいろいろ周り、お世話になる大きな家具工場に到着しました。
工場内はとても広く、敷地内に建物が多数健在し、歩きではとても回りきれません。
クーラーも付いている建物は限られており、都会育ちの虚弱な20歳男にはさっそく堪えました。
日本人は誰一人いません。私は英語もインドネシア語も全く話せません。
日印辞書を片手に、工場内軟禁生活がスタートしました。
私の仕事は家具の梱包でした。言葉が通じなくてもできる作業です。
周りには同年代のネシアンがたくさんおり、どんどん話しかけてくれました。
ただお伝えしたとおり私は全くインドネシア語を話すことはできません。完全に舐めていたので事前に勉強すらしておりません。辞書の中の文字を指さし意思疎通を図るといったところでしょうか。
ただ言語は面白いもので、4か月もすると意思疎通はできるぐらい話せるようになっておりました。
現地に住み始め半年、社長に呼び出され、シャングリラホテルの家具改修工事のリーダーに任命されました。
工場の人数では不足するため、労働者を集めることになり、その数なんと40人。
家具の数は500台。納期は2か月間。言葉はカタコト。家具の知識は皆無。世紀末リーダーの爆誕です。
まぁリーダーなんて表面上だけでしょ?と甘い考えは一瞬で吹き飛び、60日間のスケジュール表、いつまでに研磨を終わらす、塗装を終わらす、納品するといった、作業から仕事に変わった瞬間でした。
割愛しますが、ここから休みは1日もなく、毎日社長に激詰めされ、毎日泣きながら、出勤日なのにスタッフ40名が来ない日も、他の部署に助けを求め、何とか納期までに終わらすことができました。
最終的にはたくさんの方々に手伝って頂いたので私の力は微力ですが、完了したときは涙があふれてました。
そんな濃いインドネシアの生活で「頼ること」を学びました。
助けてもらうことは恥ずかしいことではないし、何かを達成するためには一人では成しえない。
人生で最高に辛かったけど、最高に人間として成長した1年間のお話でした。